ジョン・アスピンウォール・ルーズベルト2世(John Aspinwall Roosevelt II, 1916年3月13日 - 1981年4月27日)は、アメリカ合衆国の実業家。 フランクリン・ルーズベルトとエレノア・ルーズベルトの末子である。姉アンナ・ルーズベルト・ハルステッド (Anna Roosevelt Halsted
生い立ち
父親によく似ており、兄ジェームズも「末の弟が一番父似だ[1]、そして最も思慮深く、手際がよい[2]」と書いている。
急性灰白髄炎に苦しんだ兄フランクリンのため、母がフランクリンと共にヨーロッパのジュニアキャンプへ行かせた。1937年、酔っ払いのけんかに巻き込まれ、カンヌ市長への攻撃は世界中で話題となった[3]。
ジョンの戦前の活動を、伝記作家はこう指摘する。「彼がハーバードの3年生の時、父親は彼を夏の間テネシー川流域開発公社のテネシーの森でアルバイトさせた。この経験の終わりに、彼の指導員は彼の母親に「ジョンは激務や個人的成功よりもコネやつながりで前進したいようです」と手紙を書かざるを得なかった。しかし、ほとんどの伝記作家は、この判断は実際には他の息子の方がはるかにふさわしいということで一致している[4]。
第二次世界大戦の前夜、良心的兵役拒否をすると発表した。しかし家族の説得により、最終的には海軍に入隊した[5]。 ハーバード大学卒業後、1941年のアメリカの第二次世界大戦参戦までボストンのファイリーンズ・デパート (Filene's
経歴
戦後、グレーソン&ロバートソンのロサンゼルス店の地域販売マネージャーとして修業を積んだ。 1953年、ビバリーヒルズ金融会社共同経営者となるも、ハイドパークに居を構えるため、すぐに辞職した。
兄弟とは違って、ジョンはルーズベルト家の一員としてではなく、自分で働いて稼ごうとした。しかし、ジョンのデパートはルーズベルト家と懇意で、1940年代に多額の資金援助を行ったウォルター・キルシュナーの影響下にあった。また、特にキューバで1952年にフルヘンシオ・バティスタ政権成立後、兄エリオットといくつかの企業経営に関与した[7]。
ハイチ大統領フランソワ・デュヴァリエのアメリカにおける代理人となり、その就任式にも参列した。1958年までに、ハイチが「広報活動コンサルタントのため1年間15万ドルでルーズベルト、サマーズおよびハミルトンのP.R.会社を雇った」と報告されている[8]。
政治には関わらず、ボーイスカウトアメリカ連盟のグレーターニューヨーク協議会、アイゼンハワー為替フェローシップ (Eisenhower Fellowships) 、ルーズベルト大学 (Roosevelt University) 、ニューヨーク州立大学、アメリカ合衆国上院国土安全保障および国政委員会 (United States Senate Committee on Homeland Security and Governmental Affairs) など多くの組織、委員会で委員を務めた。