ジョルジュ・プレートル
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ジョルジュ・プレートル
Georges Pretre

基本情報
出生名Georges Pretre
生誕 (1924-08-14) 1924年8月14日
出身地 フランス、ワズィエール(フランス語版)
死没 (2017-01-04) 2017年1月4日(92歳没)
学歴パリ音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1946年 - 2017年
レーベルEMIフィリップス・レコード
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ジョルジュ・プレートル(Georges Pretre, 1924年8月14日 - 2017年1月4日[1])は、フランス指揮者

ウィーン交響楽団終身名誉指揮者、シュトゥットガルト放送交響楽団名誉指揮者であり、2004年にはウィーン楽友協会の名誉会員を務めている。2008年のニューイヤーコンサートにおける出演で国際的な露出度を高め脚光を浴び、改めて過去の演奏についても再評価を受けている。同コンサートには、2010年にも2回目の出演を果たしている。2013年時点で、特定の楽団、歌劇場への常任・専属契約は無かった。
人物・来歴

1924年フランスノール=パ・ド・カレー地域圏ワズィエ(フランス語版)で生まれる。

2017年、死去。92歳没。
学歴

作曲家に憧れ、 1932年、ドゥエー音楽院(フランス語版)に入学してピアノを学び、1935年パリ音楽院へ進学した。当初、オーボエを学ぼうとしたが、家庭の経済的状況と楽器が高価なことからトランペットを学んだ。学生時代にはジャズ・トランペッターを副業とし、エディット・ピアフイヴ・モンタン等とも舞台を共にすることがあった[2]1944年、首席修士相当(Premieres Prix) の評価を受け、さらに指揮に興味を抱き、和声法をモーリス・デュリュフレに、指揮法アンドレ・クリュイタンスピエール・デルヴォー、リシャール・ブラローに師事した。 この頃、“Georges Dherain”の名で2作のオペレッタを作曲する等の創作活動を行なっている[3]
フランス語圏での活動

1946年、マルセイユ市立オペラ(フランス語版)において、ラロの『イスの王様』で指揮者としてデビューする。1948年にリール・オペラ(フランス語版)と、翌1949年から1951年までカサブランカの歌劇場と指揮者として契約、1951年から1955年までトゥールーズ・キャピトル劇場(フランス語版)と指揮者として契約した後、1956年にリヒャルト・シュトラウスカプリッチョ』のパリ初演に携わったのがパリのデビューとなる。1970年から1971年までパリ・オペラ座の音楽監督に就任、1989年にはパリで行われたG7(アルシュ・サミット)に併せ各国からの出席者を招き、こけら落とし前のオペラ・バスティーユで行われたバスティーユ襲撃200周年の記念コンサートを指揮している。
英語圏での活動

1958年にリリック・オペラ・オブ・シカゴ(英語版)にてアメリカ・デビューし、その活動の範囲を北米へと拡げ、その後もボストン交響楽団フィラデルフィア管弦楽団シカゴ交響楽団等に客演、1964年にはニューヨークメトロポリタン歌劇場にて『サムソンとデリラ』でデビューした。

また、 イギリスでも1961年コヴェント・ガーデン王立歌劇場でデビューし、1962年から1970年までロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督補佐を務めている。
ドイツ語圏での活動

カラヤンの推挙により[4]1962年ウィーン国立歌劇場にて『カルメン』ドイツ語版でデビューする。ウィーン交響楽団では1986年から1991年まで第一客員指揮者を務め[5]、その後終身名誉指揮者となっている。1996年から1998年まで南西ドイツ放送シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者を務めた後、1998年に同楽団の設立50周年コンサートを指揮した後、名誉指揮者となっている。
オペラ指揮者として

フランスの地方都市におけるキャリアを通じ、レパートリーにはフランス・オペラが多い。
21世紀以降

70代を過ぎても、その感性を含め衰えを見せることなく、2001年にはヴェルディ没後100周年における記念演奏会として『レクイエム』を各所で指揮、2008年にはシェーンブルン宮殿「夏の夜のコンサート」にも登壇している。
ニューイヤーコンサート

2005年にはフェニーチェ劇場のニューイヤーコンサートを、2008年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートを初めて指揮した。2008年時点で、同団のニューイヤーコンサート史上で最高齢の指揮者となった。2009年にフェニーチェ歌劇場のニューイヤーコンサートに再登壇、2010年にはウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに再登壇して、同コンサートの最高齢指揮者の記録を自ら更新している。ウィーン・フィルの理事であるクレメンス・ヘルスベルクは2008年の実績を大きく讃え、「成功裏に収めたその公演は楽団にとってもプレートルにとっても大きな喜びであった」と語り[6]、長年の協業と高い経験値を評価した結果、再度プレートルに依頼することを決めたとしている。ちなみに2010年は同楽団の始祖を築いたオットー・ニコライの生誕200年であり、この年のニューイヤーコンサートにおける指揮者を務めることには大きな意義があった。


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