ジョルジュ・ビゴー
来日後初の誕生日をむかえたビゴー。サムライの姿をしている(1882年4月7日、横浜で撮影)
本名ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー
生誕1860年4月7日
フランス帝国・パリ
死没 (1927-10-10) 1927年10月10日(67歳没)
フランス共和国・エソンヌ県ビエーヴル
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(フランス語: Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 - 1927年10月10日)は、フランス人の画家、挿絵画家、漫画家。1882年(明治15年)から1899年(明治32年)にかけて日本に17年間滞在し[1]、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は「美郷」「美好[1]」ともある。 1860年にパリで生まれる。父は官吏、母はパリの名門出身の画家。母の影響を受けて幼い頃から絵を描き始める[2]。4歳のとき妹が生まれ、8歳の時に父が亡くなる。1871年3月から5月にかけてのパリ・コミューンでは、その成立から崩壊にいたるまで、燃えさかるパリの街や戦闘・殺戮をスケッチして回っている[3]。エコール・デ・ボザールの入り口 1872年にエコール・デ・ボザールに入学して絵を学ぶが、家計を助けるために1876年に退学して挿絵の仕事を始める。在学中はジャン=レオン・ジェロームや肖像画で知られるカロリュス=デュランの指導を受けた[2]。退学後、サロンに出入りして、日本美術愛好家として知られたフェリックス・ビュオやアンリ・ゲラール
生涯
訪日まで
1881年にはエミール・ゾラの小説「ナナ」の単行本向けに挿絵17枚を寄稿する(複数の挿絵画家の一人)。人気作品の挿絵を担当したように、フランスで既に一定の知名度を得ていたが、日本への思いは強く、渡航を決断する。陸軍大学校で当時教官を務めていた在日フランス人のプロスペール・フークの伝手を得て、この年の暮れにマルセイユ港を発ち[3]、1882年(明治15年)の1月、21歳のときに訪日した[5] 。
風刺画家へビゴーが創刊した漫画雑誌『トバエ』[注釈 1]の表紙。ピエロ姿の人物はビゴーが自らを戯画化したものである。
当時は写真が技術的な信頼性に欠けていたため、陸軍士官学校では記録用に写生を正課として教えていた。ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て[6]、1882年10月から1884年10月までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した立場と高額の報酬を得ることができた[7][注釈 2]。この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している。