ジョルジュ・クレマンソー
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フランス政治家ジョルジュ・クレマンソーGeorges Clemenceau
1904年撮影
生年月日 (1841-09-28) 1841年9月28日
出生地 フランス王国 ヴァンデ県ムイユロン=アン=パレド(フランス語版)
没年月日 (1929-11-24) 1929年11月24日(88歳没)
死没地 フランス共和国 パリ
出身校ソルボンヌ大学
前職医師ジャーナリスト
所属政党急進党
フランス第三共和政第40代首相
在任期間1906年10月25日 - 1909年7月24日
大統領アルマン・ファリエール
フランス第三共和政第53代首相
在任期間1917年11月16日 - 1920年7月20日
大統領レイモン・ポアンカレ
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ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(Georges Benjamin Clemenceau、1841年9月28日 - 1929年11月24日)は、フランスの政治家、ジャーナリスト。首相(在任:1906年 - 1909年、1917年 - 1920年)を2期務めた。
経歴・人物

1841年9月28日、フランス西北部ヴァンデ県のムイユロン=アン=パレド(フランス語版)で生まれた[1]

1869年、モンマルトルに移り医師となるが、その後政治家を志し、翌1870年にパリ18区長となった[1]。1871年2月8日、急進共和派の一員としてセーヌ県選出国民議会議員となる[1]。3月20日、議会に80人で構成されるパリ・コミューンの設立法案を提出したが、26日のコミューン評議会選挙(フランス語版)では当選しなかった[1]。その後、政府とコミューンの調停工作を行うが失敗し、パリ18区長と国民議会議員を辞任した[1]。その後、しばらく政界を離れたが、同年7月23日にクリニャンクール地区(フランス語版)選出パリ市議会議員となる[1]。以降副議長職を経て1875年に議長に就任[1]

1876年、再びパリ第18区選出の代議院議員に当選[1]。議会の最左翼、急進的社会主義者グループに所属し、リーダーとして活躍[1]。1877年5月16日危機(英語版)の後、共和派の一員としてアルベール・ド・ブロイ内閣を攻撃、1879年にはブロイ内閣への起訴を要求して人気を得た[1]。1880年、日刊紙『正義(フランス語版)』(La Justice)を発行[1]。以降ジュール・グレヴィ大統領期(1879年 - 1887年)を通して政治評論家としての名声を確固なものにしたが、一方で自身は政権をとらなかった[1]ジュール・フェリー首相(在任:1880年 - 1881年、1883年 - 1885年)の植民地政策を攻撃して、清仏戦争での失態(トンキン騒動(英語版))を利用してフェリー内閣を崩壊させた[1]。1885年フランス議会選挙(英語版)では急進主義政策を提唱してパリ第18区とヴァール県の両方で当選、後者の代表として議員を務めた[1]。翌1886年、組閣を拒否して、右派とともにシャルル・ド・フレシネ内閣の続投を支持、ジョルジュ・ブーランジェ将軍を陸軍大臣として入閣させた[1]。ブーランジェが野心をあらわにすると(ブーランジェ将軍事件)、クレマンソーは支持を撤回してブーランジェ運動への批判の急先鋒になったが、急進派の新聞紙は引き続きブーランジェを支援した[1]

1887年にダニエル・ヴィルソン(フランス語版)の勲章収賄事件(フランス語版)を暴露すると、モーリス・ルーヴィエ(フランス語版、英語版)内閣が総辞職、グレヴィ大統領はクレマンソーに組閣を打診したが、クレマンソーが組閣を拒否するとグレヴィは辞任した[1]。続く大統領選挙(フランス語版)では支持者に対しフェリー、ド・フレシネ、シャルル・フロケ(英語版)のいずれにも投票しないよう呼びかけ、「部外者」といえるマリー・フランソワ・サディ・カルノーを当選させた[1]。しかし、ブーランジェへの支持をめぐり急進派が分裂したこと、パナマ運河疑獄においてコルネリウス・エルツ(英語版)との関係により関与を疑われたこと、露仏同盟に反対したことにより人気を失い、1893年フランス議会選挙(英語版)で落選した[1]

落選した後は一旦政界を離れ、ジャーナリスト活動に専念する[1]ドレフュス事件ではドレフュス擁護の論陣を展開、エミール・ゾラを支援した[1]1898年1月13日、『オーロール(フランス語版、英語版)』紙にゾラによる大統領あての公開告発文「我弾劾す」 (J'accuse!)を掲載した。

1900年に『正義』紙を離れて週刊紙『Le Bloc』を創刊、1902年3月まで続いた[1]。また、それまで上院にあたる元老院の廃止を主張したが、1902年4月6日に元老院議員(ヴァール県選出)に選出された[1]。元老院では左派から保守派に転向。

1906年3月にモーリス・ルーヴィエ(英語版)内閣が崩壊すると、続くフェルディナン・サリアン(英語版)内閣に内務大臣として入閣、パ=ド=カレー県の炭鉱労働者ストライキ鎮圧に軍を投入した[1]。これにより社会主義派と決裂した[1]。同年10月にサリアン内閣が総辞職すると、クレマンソーは首相に就任、1909年まで務めた[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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