ジョルジャ・メローニ
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ジョルジャ・メローニ
Giorgia Meloni
2023年のメローニ

イタリア共和国
第68代 閣僚評議会議長
任期
2022年10月22日 ? 在任中
大統領セルジョ・マッタレッラ
前任者マリオ・ドラギ
イタリア共和国下院副議長
任期
2006年4月4日 ? 2008年4月28日
イタリア共和国下院議員
現職
就任
2006年4月21日[1]
イタリア共和国無任所大臣
(若年層政策担当大臣)
任期
2008年5月8日 ? 2011年11月16日

個人情報
生誕 (1977-01-15) 1977年1月15日(47歳)
ラツィオ州ローマ県ローマ
国籍 イタリア
政党イタリア社会運動 (1992年 - 1995年)
国民同盟 (1995年 - 2009年)
自由の人民 (2009年 - 2012年)
イタリアの同胞 (2012年 - )
配偶者アンドレア・ジャンブルノ(2015-2023)
子供一女
専業ジャーナリスト
宗教ローマ・カトリック

ジョルジャ・メローニ(イタリア語: Giorgia Meloni、1977年1月15日 - )は、イタリア政治家首相(在任: 2022年10月22日 - )[2]。イタリア初の女性首相[3]。反進歩主義[4]。15歳でネオファシズム政党「イタリア社会運動(MSI)」に参加[2][5]。2012年に中道右派政党「イタリアの同胞(FdI)」を結成し、現在まで党首を務めている[2][5]
人物

メローニは1992年、ネオファシストをルーツとするイタリア社会運動(MSI)の青年部である青年戦線に参加した。その後、MSIの法的後継政党である国民同盟(AN)の学生運動、学生アクションの全国指導者となる。1998年から2002年までローマ県議会議員を務め、その後、ANの青年部であるYouth Actionの代表となる。2008年、第4次ベルルスコーニ内閣の青年大臣に任命され、2011年まで同職を務めた。2012年、イタリアの同胞(FdI)を設立し、2014年に党首に就任。2014年の欧州議会議員選挙、2016年のローマ市選挙に市長候補として立候補したが、いずれも落選した。2018年のイタリア総選挙後、第18回イタリア議会の全期間において野党としてFdIを率い、特にFdIが唯一の野党であったドラギ内閣の間、世論調査においてFdIの人気を拡大させることになった。2022年のイタリア総選挙では、FdIは最多得票政党となった。

右翼ポピュリスト、イタリア民族主義者であり、彼女の政治的立場は極右と評されてきた。中絶安楽死、同性カップルのパートナーシップ、同性結婚、子育てに反対し、代わりに核家族は男性と女性のペアによってのみ運営されるべきと主張している。非ヨーロッパ系移民の受け入れや多文化主義に反対し、外国人嫌悪イスラム嫌悪と非難されている。NATOの支持者でありながら、EUに関しては懐疑的な立場をとり、2022年のロシアのウクライナ侵攻以前はロシアとの関係改善に賛成していたが、侵攻後はこれを非難し、ウクライナへの武器提供を継続することを約束した。1996年にはイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを、2020年にはナチスの協力者でMSIの共同創設者ジョルジオ・アルミランテを賞賛するなど、物議をかもす意見を表明している[6]
来歴
初期の経歴

1977年1月15日イタリア共和国の首都ローマに生まれる[7]。両親がそれぞれメッツォジョールノ(南イタリア)の島嶼部出身(父はサルデーニャ島、母はシチリア島)という家庭に育っている。熱烈なイタリア共産党の支持者だった税理士の父親は彼女が幼い頃に妻子を捨ててスペインのカナリア諸島へ移住した。学生時代から母親の政治思想の影響を強く受けネオ・ファシズムを掲げる極右政党のイタリア社会運動(MSI)を支持し、15歳の時にはMSIの党青年団「青年戦線」(Fronte della Gioventu)に入会して[7]左翼民主主義者によるジュリアーノ・アマート政権への反政府運動で頭角を現した。1994年、MSIが国民同盟(AN)に再編されると党学生団「学生行動」(Azione Studentesca)に加わり、1996年から学生団の指導者となった。

観光業・ホテル業を学べる職業高校アメリゴ・ヴェスプッチ学校を最優秀の成績で卒業後[8]ウェイトレスや有名な男性マルチタレントのロザリオ・フィオレッロの娘のベビーシッター、そしてローマの人気クラブであるハイパーのバーテンダーとして働きながら政治活動に取り組んだ。1998年、ANのローマ県党支部で評議員に選出された。2000年、ANの党青年団「青年行動」(Azione Giovani)の全国指導者に就任、2004年から党青年団の書記長となった。

2006年4月4日、MSI時代に党青年団指導者から議員に推された経験を持つジャンフランコ・フィーニ書記長に引き立てられ、同年の総選挙ラツィオ州第1比例区から党公認で下院選に出馬、29歳の若さで初当選した[7]2007年、国民同盟とフォルツァ・イタリアが合流して結成された自由の人民(PdL)が設立されると、PdLの党青年団「若きイタリア」の書記長に就任した[9]

2008年、総選挙ではラツィオ州第2比例区で再選、第4次ベルルスコーニ政権が成立すると青年政策に関する無任所大臣に抜擢されて初入閣した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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