ジョニー・デイモン
Johnny Damonクリーブランド・インディアンズでの現役時代
(2012年6月28日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カンザス州フォートライリー
ジョニー・デビッド・デイモン(Johnny David Damon, 1973年11月5日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州フォートライリー(英語版)出身の元プロ野球選手(外野手)。 1973年、アメリカ陸軍フォートライリー基地において、白人で軍人の父親とタイ人の母親の間に生まれる。 1992年のMLBドラフト1巡目(全体35位)でカンザスシティ・ロイヤルズから指名され入団。 1995年8月12日にメジャーデビューし、45試合に出場し、打率.282を記録した。 1996年、初めて1年を通してメジャーでプレーをした。145試合に出場し、打率.271、リーグ8位の25盗塁を記録した、8月10日エンゼルス戦では自身初の満塁本塁打を放った[1]。 1998年は全161試合(メジャーは162試合制であるが、1998年ロイヤルズは161試合だった)に出場し[2]、打率.277、リーグ2位の10三塁打を記録した。 1999年は打率.307で初めで打率が3割台を記録したが、9月14日のエンゼルスとのダブルヘッダー第2戦で欠場したため、球団記録を更新し続けていた連続試合出場が305で途切れた[3]。 2000年は開幕から4月下旬まで打率が2割を下回るなど極度のスランプに陥り、4月19日のツインズ戦では監督のトニー・ミューサーが彼らしいスイングが全くできていないからと、試合を休ませた[4]。本人はこの欠場が復調のきっかけとなったと認めており、翌日から5月7日にかけて14試合連続安打を記録し、その間に達成した10試合連続先頭打者安打は、25年前にこの記録を付けるようになってからで最長となった[4]。 7月には打率.436を記録し、18日のカブス戦ではMLBタイ記録となる4二塁打を放ち[5]、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに選出された。この年のレギュラーシーズンは自己最高となる打率.327・214安打・136得点・42二塁打・88打点・46盗塁を記録し、得点は球団新記録となった[6]。 2000年シーズン終了後にロイヤルズは5年総額3200万ドルで契約を提示したが、デイモンの代理人スコット・ボラスは契約せず1年待ち、FA市場で試すことにした[7]。そして2001年1月8日にロイヤルズ、アスレチックス、デビルレイズによる三角トレードでオークランド・アスレチックスへ移籍した[8]。155試合に出場し、打率.256、9本塁打、27盗塁と前年より成績が悪化したものの、チームは2年連続でプレーオフに進出し自身初めてポストシーズンへ出場。しかし、ニューヨーク・ヤンキースとのアメリカンリーグディビジョンシリーズ(AL DS)で敗退した。オフの11月5日にFAとなった。 2001年12月21日、ボストン・レッドソックスに4年3200万ドルで移籍した。 2002年は自身初めて最終投票でオールスターゲームに選出された[9]。最終的に打率.286、リーグ5位の118得点、自己最多の11三塁打を記録した。 2004年は打率.304・123得点・初の20本塁打・自己最多の94打点を記録した。プレーオフではヤンキースとのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)の第7戦では、優勝を決定付ける満塁本塁打を記録した。カージナルスとのワールドシリーズの第4戦では、先制のソロ本塁打を放つ活躍を見せ、チームの86年振りのワールドシリーズ優勝に貢献した。 2005年12月23日に4年総額5200万ドルでのニューヨーク・ヤンキースへ移籍[5]。歴史的な因縁の多いライバルチームへの移籍とあって、大きな話題を呼んだ。それに伴い、その長髪と髭を切り落とした[10]。 2006年はシーズン開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された。
経歴
プロ入りとロイヤルズ時代
アスレチックス時代
レッドソックス時代
ヤンキース時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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