ジョナス・サヴィンビ
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アンゴラ政治家ジョナス・サヴィンビJonas Malheiro Savimbi

生年月日1934年8月3日
出生地 ポルトガル領西アフリカビエー州
没年月日 (2002-08-22) 2002年8月22日(68歳没)
死没地 アンゴラモシコ州ルクッセ
所属政党アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)
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ジョナス・マリェイロ・サヴィンビ(Jonas Malheiro Savimbi、1934年8月3日 - 2002年8月22日)は、アンゴラ政治家民族主義者、ゲリラ活動家。反政府武装勢力「アンゴラ全面独立民族同盟」(UNITA)の創始者で、同組織の軍事部門であるアンゴラ解放軍(英語版)の司令官でもあった。ジョナス・サビンビとも表記される。30年以上続いたアンゴラ内戦の当事者。
略歴

1958年 - 医師の道を志し、宗主国ポルトガルリスボン大学に留学、医学を専攻。反政府活動による取締を避けるためにスイスへ移動、フリブール大学社会学部を専攻。

1961年 - 反政府組織アンゴラ民族解放戦線(FNLA)の亡命政府の外務大臣に指名される。

1965年 - スイスのローザンヌ大学政治学を専攻、博士号を取得。中華人民共和国で軍事訓練を受け、毛沢東思想に傾倒する[1]

1966年 - FNLAを離反し自ら反政府組織、アンゴラ全面独立民族同盟を結成。アンゴラ独立戦争に参入。この時にアンゴラ解放運動が鎮圧された場合に備え、ポルトガルの秘密警察PIDE(英語版)とも関係を持ち、対立関係にあったアンゴラ解放人民運動(MPLA)に関する情報を横流ししていたとされている。

1975年 - アンゴラ独立達成。対立していたMPLAがソビエト連邦キューバの援助でマルクス・レーニン主義を標榜するアンゴラ人民共和国を建国したことから、古巣のFNLAと共にアンゴラ民主人民共和国を立ち上げてアンゴラ内戦を引き起こした。UNITAの支援国はアメリカ合衆国ならびに中国ザイールフランスイスラエルエジプトモロッコサウジアラビアといったソ連陣営と敵対する国々であり[2]、さらにアンゴラに派兵したアパルトヘイト時代の南アフリカからは直接支援を受けていた。

1985年 - 南アフリカ軍に警備されたUNITAの本拠地ジャンバ(英語版)でニカラグアコントラアフガニスタンムジャヒディンの代表などとともにソビエト帝国主義の打倒を掲げる国際組織民主インターナショナル(英語版)の設立会議を行った[3]

1992年 - アンゴラ内戦和平条約、大統領選に出馬するものの落選。

1994年 - 内戦再開、ダイヤモンド鉱山からの収益により戦闘を継続する。

2002年2月22日 - 戦闘中に死亡。

人物サヴィンビとロナルド・レーガン(1986年)サヴィンビとジョージ・H・W・ブッシュ(1990年)

独立前も含め30年以上も続いたアンゴラ内戦の当事者。かつては当時中ソ対立を起こしていた中国で軍事訓練を受けた毛沢東主義者であり、モスクワへの留学も拒否するほどソ連に敵対的だった[4]。米ソ冷戦が激しさを増した1970年代?1980年代前半からは共産主義政権の打倒を目指す反共主義者として西側諸国から強い支援を受けるものの、ソビエト連邦崩壊に伴い発言力が低下した。

アパルトヘイトを堅持して国際社会と対決していた南アフリカのピーター・ウィレム・ボータと親交を結び[5]、ボータに象牙AK-47を贈っている[6]


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