ジョチ
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この項目では、チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖について説明しています。チンギス・カンの弟で本項の叔父については「ジョチ・カサル」をご覧ください。
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ジョチ
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朮赤
ジョチ・ウルス初代君主

在位1220年 - 1225年

出生1177/84年

死去1225年

配偶者ソルカク・カトゥン(サルタク・カトゥン)
 ベクトゥトミシュ・フジン
 オキ・フジン
 スルターン・カトゥン
子女オルダ
バトゥ
ベルケ  他
家名ボルジギン氏
父親チンギス・カン
母親ボルテ
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ジョチ(???? Jo?i、現代モンゴル語:З?чи、1177年/1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。

漢字史料では主に朮赤、アラビア語ペルシア語史料では主に???? ??? j?ch? kh?n と綴られる[1]

すぐ下の弟のチャガタイとはジョチ自身の出生の疑惑などを巡って険悪な仲であり、その関係は2人が関わった戦いの推移、父のチンギス・カンの後継者問題にも影響を与えた。
生涯

生年は1177年1184年など諸説ある。ジョチはチンギス・カンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイオゴデイトルイの3人がいる。当時のモンゴルには、近隣国のように嫡長子を後継者とする制度は存在しなかったので、ジョチは長男であることによって他の兄弟と比べて特に優遇されていたりはしない。ただし、末弟で最有力後継者候補であったトルイとともにケレイト部の王オン・カンの姪でジャカ・ガンボの娘のベクトゥトミシュ・フジンを娶り、これは実現しなかったが、オン・カンの娘のチャウル・ベキを娶る予定があったことなど、長男として有力な立場にあった可能性は指摘できる。

若い頃から父に従ってモンゴル高原の統一に至る戦いに参加し、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。1206年にチンギス・カンが高原を統一すると、高原の西に位置するアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流域に4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられ[2]、帝国の最も北西に位置することからオイラトキルギスなど高原北西の森林地帯に住む諸部族の平定を任せられた。オイラトが帰順した際には、その一首長に娘を娶わせている。

1211年より、チンギス・カンがへの遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ2人の弟のチャガタイオゴデイとともに、全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加、山西地方の席捲して諸城を陥落させた。この時の功績により平陽一帯を投下領として与えられ、以後平陽路は代々ジョチ家の領地として受け継がれる。

1218年には金朝遠征中に叛乱を起こしたトゥマト部を初めとする、西北の「森林の民(ホイン・イルゲン)」の平定を命じられた。この時、メルキト部の残党を追ってキプチャク草原まで至った軍団は、カラ・クムの戦いにおいてアラーウッディーン・ムハンマド率いるホラズム軍を破っている。1219年から始まる西方遠征でも右翼の指揮官として中央アジア北部を進み、戦役の発端となった町オトラルを攻略した後、スィル川沿いに下ってスィグナクジャンド、ヤンギカントを征服した。スィグナクでは、ジョチが攻撃に先立って降伏を要求するために送った使者ハサン・ハッジーを住民が惨殺したため、モンゴル軍は攻略後に町を徹底的に破壊、残った住民を皆殺しにしたという。

その後、中央アジアの中枢マー・ワラー・アンナフルからアム川沿いに下ってホラズム・シャー朝の本拠地ホラズムの主邑ウルゲンチを攻撃したが、彼はともに攻撃を担当したすぐ下の弟のチャガタイと不和だったために攻略に手間取ることがあった。このため兄弟は父チンギス・カンの不興を買ったが、2人の兄いずれとも仲の良い弟のオゴデイが兄の間にたって指揮をとり、事なきを得た。

ジョチの攻城は、従来のモンゴルが一般に行っていた城内乱入に次ぐ略奪と破壊を嫌ったためか、相手が降伏するのを待つという戦法を取ることが多く、進軍速度を緩めてしまったという評価が強い。そのため、従来どおりの戦法を取るチャガタイとは、もともとの不和とあいまって、ウルゲンチのような事態を引き起こしたと見られる。実際にウルゲンチにおいても彼は、降伏交渉を行っている。

諸史料によれば、チンギス・カンはこの頃、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な三男のオゴデイが後継者に指名された。このとき、チンギス・カンは実際に諸子を集めて自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、その場でジョチとチャガタイが口論になり、2人が互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられたという[3]

中央アジア遠征の後、ジョチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジョチのウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。さらに、ジョチはチンギス・カンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯の諸族の征服を委ねられ、チンギス・カンがモンゴル高原に帰還した後もカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。

この間にジョチは病を発し、軍を進めることができなくなった。しかし、この間の事情がモンゴル高原にはジョチが狩猟に興じて軍事をおろそかにしているとの噂になって伝わった。激怒したチンギス・カンはジョチに対して召還命令を下したが、ジョチは病のために帰還することができず、1225年頃に父に先立って病没してしまった。一方、チンギス・カンはジョチが召還の命令に従わないのでいよいよ討伐の軍を送ろうとまでしていたが、そこに病没の報が伝わり、大いに悲しみ落胆したと伝えられている。
ジョチの出生をめぐる問題

ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。

ペルシア語の歴史書『集史』によると、ジョチが母のボルテの腹の中にいたとき、まだ弱小勢力だった後のチンギス・カンことテムジンの幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部族の君主トクトア・ベキ率いる軍勢によって襲撃される事件があった。


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