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出典検索?: "ジョチ・ウルス"
公用語モンゴル語
タタール語、チャガタイ語
首都サライ
ハン
1226年 - 1280年オルダ
1242年 - 1255年バトゥ
1379年 - 1395年トクタミシュ
1435年 - 1459年マフムード・ハン
1481年 - 1502年シャイフ・アフマド
変遷
モンゴルのルーシ侵攻と建国1240年代
オルダ・ウルス、バトゥ・ウルスの同盟1478年
大オルダへ崩壊1466年
クリミア・ハン国に征服される1502年
ジョチ・ウルス(ペルシア語: ????? ????、Ul?s-i J?ch?)は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男のジョチの末裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。 ジョチ・ウルスは歴史家によって金帳汗国、キプチャク=ハン国といったさまざまな呼称がなされている。 『集史』「ジョチ・ハン紀」ではジョチ家の政権を指して「ジョチのウルス(ul?s-i j?ch?)」と呼称しており、この記述に基づいてジョチ・ウルスという呼称が用いられている。後述するように、ロシア中心史観の影響を濃厚に受けている「金帳汗国」という呼称を避けるため、近年のモンゴル史研究者の間で広く用いられている[1]。 日本では1898年以来学校教科書が「キプチャク=ハン国(汗国)」という名称を用いていたため広く知られているが、実は史料上で確認される呼称ではない。マムルーク朝で編纂された史料ではジョチ・ウルス君主を指して「キプチャク草原の王」とも呼称するが、「キプチャク=ハン」という呼称は歴史史料には全くあらわれて来ない。そのため、「キプチャク=ハン国」という呼称は後世の歴史研究者による研究上の呼称にすぎない[2]。 主にロシア語史料においてジョチ家の政権を「金の大オルド(金帳)」と呼称することに由来し、ロシアを中心とする欧米地域では主としてこの呼称がもちいられる。ただし「金の大オルド(金帳)」という呼称が初めてロシア語史料に登場するのは16世紀以後のことであり、「金帳汗国」という呼称は同時代的なものではないという批判がなされている[3]。ただし、このような批判に対してルブルックなどの記録にもバトゥが金の玉座に座っていたとあることを挙げ、「金の大オルド(金帳)」という概念は同時代的なものであるとする反論も存在する[4]。また、初めて「金帳汗国」という呼称を用いた『カザン帝国史』における「金帳」の用法は現代における用法と微妙に異なるものであり、後述するようにバトゥ以前のジョチ家史を含まないなど、その指し示す対象については議論がある。 現在では総じて、欧米諸国の大部分で「金帳汗国」、欧米諸国の一部と日本で「キプチャク=ハン国」という呼称が用いられており、一方でこの政権の研究の専門家がジョチ・ウルスという呼称を積極的に用いているといえる[5]。
名称
ジョチ・ウルス
キプチャク=ハン国
金帳汗国
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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