ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
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ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
Jose Eduardo dos Santos

2014年のドス・サントス
アンゴラ共和国
第2代 大統領
任期1979年9月10日2017年9月26日
副大統領フェルナンド・ダ・ピエダデ・ディアス・ドス・サントス
マヌエル・ドミンゴス・ヴィセンテ(英語版)
首相フェルナンド・ジョゼ・デ・フランサ・ディアス・ヴァン=デュネム
マルコリーノ・モコ(英語版)
フェルナンド・ジョゼ・デ・フランサ・ディアス・ヴァン=デュネム
フェルナンド・ダ・ピエダデ・ディアス・ドス・サントス
パウロ・カソーマ[1]

出生 (1942-08-28) 1942年8月28日
ポルトガル領アンゴラ、ルアンダ
死去 (2022-07-08) 2022年7月8日(79歳没)
スペインバルセロナ
政党アンゴラ解放人民運動(MPLA)
出身校アゼルバイジャン国立石油大学
署名

ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス(ポルトガル語: Jose Eduardo dos Santos、1942年8月28日 - 2022年7月8日[2])は、アンゴラ軍人政治家革命家。第2代アンゴラ共和国大統領アンゴラ解放人民運動(MPLA)議長。

1979年にアゴスティニョ・ネト初代大統領の後を継いで大統領となり、2017年9月に退任するまで38年間にわたる長期政権を維持した。これはアフリカでは赤道ギニアテオドロ・オビアン・ンゲマ大統領に次ぐ長さであった[3]
略歴

父は建設労働者。1956年学生時代にアンゴラ解放人民運動(MPLA)に加わる。しかし宗主国ポルトガルの弾圧を逃れ、1961年フランス亡命を余儀なくされ、後にコンゴ共和国に逃れた。この頃からMPLA内で台頭し、副議長となる。また、亡命生活のため学業を中断していたが、ソ連に移りアゼルバイジャン石油化学大学(現・アゼルバイジャン国立石油アカデミー(英語版)、Azerbaijan State Oil Academy)でエンジニアリングの学位を取得する。1970年アンゴラに帰国し、MPLAの軍事部門であるアンゴラ解放人民軍(Exercito Popular de Libertacao de Angola、EPLA)に所属、MPLAの第二政治・軍管区ラジオ送信担当に就任し、アンゴラ独立戦争に参加した。1974年第二管区電気通信担当副司令官となり、同時にMPLA外交担当コーディネーターに就任した。

1975年にアンゴラはポルトガルからの独立を果たしたものの、アンゴラは内戦に突入する。アンゴラ内戦初期に議長兼外交政策担当書記となり、1976年に書記を交代した。

1979年9月、アンゴラ初代大統領のアゴスティニョ・ネトが死去すると、後継大統領に就任した。

2013年12月15日、娘が企画したマライア・キャリーのコンサートに出席。マライア・キャリーの百万ドル(約1億円)とも指摘される出演料とともに話題になった[4]

2016年3月、73歳の時に2年後の政界引退を表明[3]。2017年8月23日に実施された大統領選挙には出馬せず、9月26日に大統領を退任[5][6]

2020年1月、ICIJはアフリカ一の女性富豪(資産約2300億円)と言われる長女のイサベルが公共事業を受注したり、租税を回避して巨額の富を得た疑いがあると報じた[7]

2021年9月14日、滞在先のバルセロナから2年数か月ぶりに帰国した[8]


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