ジョゼフ・モニエ[1](Joseph Monier. 1823年11月8日-1906年3月13日)は、鉄筋コンクリートを考案したことで知られるフランスの庭師[2][3]。
鉄筋コンクリートはさまざまな人物によって徐々に確立されていった技術であり、誰か一人に「発明」を帰することはできないが、その考案者の一人として必ず名前があがる人物である[4]。 モニエの若いころのことは詳しく伝わっていない。モニエは1823年に南フランスにあるニーム近郊のサンカンタンラポテュリ(Saint-Quentin-la-Poterie 当時の園芸用の植木鉢類は、もっぱら伝統的な陶器(粘土を焼いたもの)で作られたものが普及していた。これに新しい変わり種としてコンクリート製の植木鉢も出回るようになっていて、目新しさからそれなりに人気があった[4]。 しかしコンクリート製植木鉢は不便だった。分厚いコンクリート製の鉢は重すぎて容易には動かせず、堅い割にはよく壊れた[4]。 モニエは薄くて丈夫な植木鉢を求め、コンクリートの鉢の改良に取り組んだ。そして1849年に、金網にセメントを流し、補強したコンクリート鉢をつくるという発想に到達した[4][5]。モニエははじめ、凍結しても割れない水道管の材料を探しているうちに、コンクリートに金網で補強することに行き着いたと言う[6]。 それよりも以前から、鉄骨をコンクリートで被膜する工法が知られていたが、これは建築物の耐火性を高める目的で行われており、強度を高める目的で鉄とコンクリートを組み合わせたのはモニエの植木鉢が最初だと考えられている[4]。 モニエは1867年のパリ万国博覧会に金網入りの植木鉢を出品した[7]。7月16日にはシュロを植えるための「鉄で強化した園芸用の桶」で最初の特許を取得した[8][5][9]。これによってモニエの手法は世間に広く知られることになった[4]。 モニエは鉄網入りのセメント材の用途を次々と考案し、さまざまな特許を取得していった。「管と鉢」(1868年)[4]、「建物の外装用の羽目」(1869年)[4]、「橋」(1873年)[4]、枕木(1877年)[5]、「梁」(1878年)などである。1875年には、モニエの設計によって、シャズレ城 (Chateau de Chazelet しかし、モニエ自身は、コンクリートと鉄の組み合わせがどうして強度が高まるのか、その原理を理解はしていなかった。モニエが取得した特許の中でも、そのメカニズムについては説明されておらず、具体的な強度は直感に頼っていた[4][6](それでも当時、鉄筋コンクリートで建物を作るには、モニエに特許使用料を支払う必要があった[6]。)。 そのせいで、モニエの特許を直接的に建築に応用するのは難しく、当時、急速に成長していた建築業で本格的に採用されるに至らなかった。モニエは商業的な利益を手にすることがないまま、1906年に没した。その死因はよくわかっていない[4]。 フランスのフランソワ・エヌビック モニエの特許はドイツやオーストリアで特に人気があった。中でもベルリンの建築家・技術者のグスタフ・アドルフ・ヴァイス(Gustav Adolf Wayss
目次
1 出自
2 鉄とコンクリートの組み合わせの考案
2.1 金網を入れた植木鉢の考案
2.2 パリ万博への出展
2.3 エヌビックの応用
2.4 ヴァイスの応用
3 鉄筋コンクリートの強度
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
出自
鉄とコンクリートの組み合わせの考案
金網を入れた植木鉢の考案
パリ万博への出展
エヌビックの応用
ヴァイスの応用
ヴァイスは事務所を立ち上げて、ドイツとオーストリア国内におけるモニエの特許権を買収した。そのうえで鉄筋コンクリートに関する研究を重ね、載荷試験などを行って、モニエ自身も仕組みを理解していなかった鉄筋コンクリートの強度について解明した。ヴァイスはこれらの結果をまとめ、1887年に『モニエ・システム(The Monier System)』というタイトルで発表し、さまざまな建築工法のなかでモニエの鉄筋コンクリートを最も高く評価するとともに、鉄筋コンクリートの構造計算を確立した[5][8][4]。この工法を解説するパンフレット(Monier Brochure)も広く出版された[6]。
このレポートによって、ドイツ語圏では「モニエ・システム」と称する鉄筋コンクリート工法が知れ渡ることになった。ヴァイス自身も、モニエ・システムによって、ドイツ国内で1887年から1899年までの間だけで320もの橋を建設している。まもなくこの工法はヨーロッパ中に広まり、オーストラリアやアメリカでも採用されて普及するようになった[4][5]。