ジョゼフ・ボナンノ
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ジョゼフ・ボナンノ
Joseph Bonanno
マグショット(1964年10月21日)
生誕Giuseppe Carlo Bonanno
ジュゼッペ・カルロ・ボナンノ
(1905-01-18) 1905年1月18日
イタリア王国 シチリア州カステッランマーレ・デル・ゴルフォ
死没 (2002-05-11) 2002年5月11日(97歳没)
アメリカ合衆国 アリゾナ州ツーソン
死因心不全
国籍 イタリア王国 アメリカ合衆国
職業マフィア
罪名法廷侮辱罪
刑罰禁錮
配偶者フェイ・ラブルッゾ
子供ビル・ボナンノ

有罪判決有罪

ジョゼフ・ボナンノ(英語:Joseph Bonanno、1905年1月18日 - 2002年5月11日)は、アメリカ合衆国のマフィア。イタリア系犯罪組織であるコーサ・ノストラの幹部で、ニューヨーク五大ファミリーの1つであるボナンノ一家のボス。本名はジュゼッペ・ボナンノ (Giuseppe Bonanno)。ゲイ・タリーズの著作『汝の父を敬え』(常盤新平訳)のモデルであり、イタリア移民の成功と没落を通して落陽の中にあるアメリカを描いた本作の名が高かったために、息子のビル・ボナンノが実録本としての『ゴッドファーザー伝説―ジョゼフ・ボナーノ一代記』を2001年に執筆するおまけもついている。
生涯
家系

1905年1月18日にシチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ(以下、カステラマレと略記)に誕生する。ボナンノ家は何世紀もの歴史を持つ名門で、1850年代から1880年代にジョゼフの祖父にあたるジュゼッペ・ボナンノが一家を率いた[1]。1890年代後半にブチェラート家と戦争状態となり、1899年にジュゼッペの次男ステファノがロープで絞殺され、1903年に三男のジュゼッペ・ジュニアがナイフで刺されて死亡し、トラパニに就学していた四男のサルヴァトーレが帰還して家督を継ぎ、ブチェラート家の一味数人を殺害して復讐した[2]。その後ブチェラート家と和解し、ブチェラート一族のドンのフェリチェ・ブチェラートがサルヴァトーレの息子のジョゼフ・ボナンノの名付け親(ゴッドファーザー)になることで和解の記しとした[3]1908年にサルヴァトーレは息子のジョゼフと共に一家でアメリカに移住し、カステラマレ移民が固まって住んでいたブルックリンのウィリアムズバーグに住んだ。1911年に他のギャングと商売をめぐって対立したため、シチリアに帰国し、サルヴァトーレはその後徴兵で従軍したが、従軍中の怪我が原因で死亡した。ジョゼフは1921年にパレルモの商船大学に入学した。
密輸ギャングの仲間入り

ベニート・ムッソリーニのファシスト政策による強力なマフィア取り締まりから逃れるため、1924年12月に再度渡米した。フロリダ州タンパに着くと、従兄弟のステファノ・マガディーノの斡旋で、当時バッファロー一家の密輸の手伝いをしていたウィリー・モレッティにニューヨークまで連れられて来た[4]。かつて住んだウィリアムズバーグで叔父のボンヴェントレ兄弟の保護下に入った。ヴィト・ボンヴェントレのパン屋の配送トラックのドライバーなどをしていたが、1927年1月にマガディーノの紹介で、仲間のガスパール・ディグレゴリオと共にサルヴァトーレ・マランツァーノの酒密輸ビジネスに加わった。1927年8月にニュージャージー州のモレッティの自宅でボストンの密輸ギャングであるジョセフ・P・ケネディの面識を得たとされる。
マッセリアとの抗争

1928年10月にブルックリンに勢力を拡大したジョー・マッセリアが、カステラマレ派のボスであるコラ・シーロに上納金を要求して圧力を加えた。ボナンノはディグレゴリオらと共にマッセリア派の襲撃から酒密輸トラックを守った。1930年初め、逃亡したコラ・シーロに代わってボスを継いだジョー・パリッノはマッセリアの傀儡になったため、強硬派のマランツァーノにとって替えられた。マランツァーノは、マッセリアに密かに造反していたコルレオーネ系マフィアのトミー・ガリアーノ一派と水面下で同盟し、マッセリア陣営の有力者を次々に殺害した(カステランマレーゼ戦争)。1931年4月、マッセリアが部下の裏切りで謀殺された後、マランツァーノはマフィアを一堂に集めて勝利宣言を行い、ニューヨークマフィアを五大ファミリーに整理すると共に、自らボスの中のボスを宣言した。

1931年9月、マランツァーノはルチアーノにより謀殺されたが、ボナンノ含め部下たちはルチアーノに復讐しなかった。この間のボナンノの態度は不明である。その後、ボス投票でフランチェスコ・イタリアーノを下し、26歳でカステラマレ派ファミリーのボスに選出された。1931年11月、マフィアの家系で同郷のフェイ・ラブルッゾと結婚した。
五大ファミリーのボス
1930年代?1940年代

ファミリーの規模はニューヨークの他のファミリーに比べ小さかったが、ブルックリン北部やマンハッタンのリトルイタリーを拠点に、ナンバーズ賭博やイタリア富くじ、高利貸し、組合強請、麻薬ビジネスなど多角展開し、持ち前の経営センスからアパレル工場、チーズ製品、倉庫ビジネス、モーテル、ピザ屋やカフェまで半合法ビジネスを広げた。蓄財の大部分を隠したため国税局にも把握されず(脱税)、億万長者になった。葬儀屋も経営し、二重底の棺桶を開発して死体の証拠隠滅に役立った[5]。マフィアの協定を侵してアリゾナにも進出し不動産開発や保険業を展開、また綿農園を買収した。1945年、アメリカ市民権を獲得し、同年、賃金法違反で罰金を払った。1946年12月、キューバで行われた全米ギャングのハバナ会議に参加した。
1950年代

ランスキーとキューバの賭博事業に投資し、ハイチに独自の賭博投資を行なった[5]。カナダのモントリオールにも地歩を伸ばし、従兄弟のマガディーノ一家と対立する地元のコントロニ一家と提携して、1951年、麻薬取引の拡大のためシチリア島パレルモで地元マフィアやコミッションの面々と会議した。1952年、カーマイン・ギャランテを派遣、モントリオールをヘロイン密輸の一大拠点にすると、更にマガディーノの縄張りのトロントに狙いを定めた[6]。1953年、当局に国外追放されそうになったが下院議員の知友やローマンカトリック司教のお陰で免れた[7]。1956年、ニューヨーク州南部ビンガムトンのアーリントンホテルで、副ボスのフランク・ガロファロ、カーマイン・ギャランテ、ジョン・ボンヴェントレ、バーバラ一家のジョゼフ・バーバラ、ルッケーゼ一家のジョゼフ・ディパレルモらと麻薬会議を行った(帰途ギャランテが運転免許証不携帯で捕まり集会が暴露された)[8][9]

長年コミッションのメンバーを務めたが、他のファミリーの内紛には不干渉主義を貫いた。1957年10月、ニューヨークのマフィア間で権力闘争が起こっている間、南国のバカンスで肌を焼き、ルチアーノらとシチリアの麻薬サミットに参加したりしていた(ルチアーノやジョゼッペ・ジェンコ・ルッソたちと委員会設立や密輸ルートの会議を行った)[6]。同年11月、マフィアの大集会アパラチン会議が開催され、ボナンノは、部下のジョン・ボンヴェントレやナタール・エヴォラらと拿捕された。1956年8月にジョゼフ・プロファチと子供同士の結婚を通じて姻戚関係を結び、プロファチ一家と連携を強化した[10]
バナナ戦争

1962年3月にプロファチが病死して副ボスのジョゼフ・マリオッコがプロファチ一家のボスの座に就いたが、コミッションはジョーイ・ギャロの反乱問題を解決していないとしてマリオッコのボス就任に難色を示した。ギャロの反乱行動の背後にカルロ・ガンビーノがいると見たボナンノはマリオッコと共謀して、マリオッコのボス就任に反対するガンビーノ、トーマス・ルッケーゼ、マガディーノらニューヨークファミリーボスと、ボナンノが乗っ取りを仕掛けていたロスのフランク・デシモネらを一気に暗殺することを企てた[5]


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