ジョゼフ・プリーストリー
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ジョゼフ・プリーストリー
Joseph Priestley
ジョゼフ・プリーストリーの肖像画。エレン・シャープルズ(Ellen Sharples)画(1794年)
生誕 (1733-03-23) 1733年3月23日
ヨークシャー
死没 (1804-02-06) 1804年2月6日(70歳没)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ノーサンバーランド
研究分野自然哲学化学神学
研究機関王立協会
出身校ダヴェントリー・アカデミー(en:Daventry Academy)
主な業績酸素の発見、炭酸水の発明、一酸化窒素二酸化窒素塩化水素アンモニアなどの気体の単離
影響を
受けた人物ベンジャミン・フランクリン
主な受賞歴コプリ・メダル(1772)
プロジェクト:人物伝
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ジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley, 1733年3月23日 - 1804年2月6日[1])は、18世紀イギリス自然哲学者、教育者、神学者、非国教徒聖職者政治哲学者で、150以上の著作を出版した。気相の酸素の単離に成功したことから一般に酸素の発見者とされているが、カール・ヴィルヘルム・シェーレアントワーヌ・ラヴォアジエも酸素の発見者とされることがある[2]。その生涯における主な科学的業績として、炭酸水の発明、電気についての著作、いくつかの気体(アンモニア塩化水素一酸化窒素二酸化窒素二酸化硫黄)の発見などがあるが、最大の功績は「脱フロギストン空気」(酸素)の命名である。1774年夏、酸化第二水銀を加熱することによって、得られる気体が燃焼を激しくすることを発見し、その気体の中でネズミが長生きすることを発見した。当時フロギストン(燃素)説の時代であったので、「脱フロギストン空気」と考え、同年ラヴォアジエに話した。この気体が酸素である。この実験を追実験することによってラヴォアジエは燃焼の化学的プロセスを解明することになった。しかしプリーストリー自身はフロギストン説に固執し、化学革命を拒否したため、科学界で孤立することになった。

プリーストリーにとって科学は神学に不可欠な要素であり、一貫して啓蒙合理主義とキリスト教の融合を心がけていた[3]。哲学的著作では有神論唯物論決定論の融合を試み、それを audacious and original(大胆で独創的)と称した[4]。彼は自然界を正しく理解することで人類の進歩が促進され、キリスト教的千年王国が到来すると信じていた[4]。言論の自由を強く信じ、宗教的寛容と非国教徒の平等な権利を主張、イングランドにおけるユニテリアン主義の確立に関与した。物議を醸す著作『誤りと迷信という古い建物を爆破して』を出版しフランス革命支持を表明したことで、政治的疑惑を引き起こした。国教会に扇動された群衆が彼の家と教会に押し寄せ火を放ったため、1791年にはロンドンに逃げ、さらにアメリカ合衆国への移住を余儀なくされた。晩年の10年間はペンシルベニア州ノーサンバーランド郡で過ごした。

生涯を通じて学者であり教育者だった。教育学における貢献として、英文法に関する重要な著作を出版。歴史についての本では初期の年表を記載し、後世に影響を与えた。こういった教育目的の著作が最も出版部数が多かった。しかし、後々に長く影響を与えたのは哲学的著作である。影響を受けた哲学者としてジェレミ・ベンサムジョン・スチュアート・ミルハーバート・スペンサーらがおり、彼らは一般に功利主義者と呼ばれている。
生い立ちと学生時代 (1733?55)[ソースを編集]プリーストリーの生家(現存せず)。リーズの南西10kmほどのバーストールにあった[5]

リーズ近郊のバーストールで、(イングランド国教会に属さない)非国教徒の一家に生まれる。6人兄弟の長子で、父は布地の仕上げを仕事にしていた。母親の負担を軽くするため、1歳になったころに祖父に預けられたが、5年後に母が亡くなると、実家に戻された。父は1741年に再婚。プリーストリーは子供ができないでいた裕福な叔父夫婦に育てられることになった[6]。早熟であり、ウェストミンスター小教理問答の107の問答を4歳で全て暗唱してみせた。叔母は聖職者に向いていると考え、最良の教育を受けさせる方法を捜した。幼いころは地元の学校でギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語を学んだ[7]

1749年ごろ重病を患い、一時は死を覚悟した。信心深いカルヴァン主義者として育ち、救済には回心体験が必須だと信じていたが、自分にそれがあったかという点では疑問を持っていた。この精神的苦痛からこれまでの信仰に疑問を持ち、神の選びを拒絶して万人救済主義を受け入れるようになった。そのため、一家の教会 (Independent Upper Chapel of Heckmondwicke) の正会員となることを断わられた[6][8]

その病気の後遺症で生涯「吃り(どもり)」が残った。そのため、聖職者となることを一旦は完全に諦めた。リスボンで貿易商を営む親戚に身を寄せることになり、フランス語、イタリア語、ドイツ語など様々な言語を学んだ。牧師 George Haggerstone に個人指導を受け、高等数学、自然哲学、論理学、形而上学を学んだ。教科書としてアイザック・ウォッツの著作、ヴィレム・スフラーフェサンデ (Willem 's Gravesande) の著作、ジョン・ロックの著作を使ったという[9]
ダヴェントリー・アカデミー[ソースを編集]

結局、神学の道に戻ることを決め、1752年にダヴェントリーの非国教徒向けアカデミー (Daventry Academy) に入学[10]。既にかなりの書物を読破していたため、2学年を飛び越して進級することになる。猛勉強を続け、学校の寛大な雰囲気もあって、左翼よりの神学者となっていき、合理的非国教徒となっていった。教義や宗教的神秘主義を嫌い、自然界と聖書の合理的分析を信条とするのが合理的非国教徒である[11]

後にこの点に関して最も影響を受けた著書としてデイヴィッド・ハートリー の Observations on Man (1749) を挙げている[12]。これは心理学的、哲学的、神学的な論文であり、心の哲学を扱っている。ハートリーは宗教的「事実」や道徳的「事実」を科学的に証明することを目標としており、プリーストリーも同じことを生涯の目標とした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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