アメリカ合衆国の政治家ジョゼフ・ドッジJoseph Dodge
ドッジ夫妻と池田勇人
生年月日1890年11月18日
出生地 アメリカ合衆国
ミシガン州デトロイト
没年月日 (1964-12-02) 1964年12月2日(74歳没)
死没地 アメリカ合衆国
ミシガン州デトロイト
出身校デトロイト中央高校
前職デトロイト銀行
ジョゼフ・マレル・ドッジ(英語: Joseph Morrell Dodge、1890年11月18日 - 1964年12月2日)は、アメリカ合衆国の政治家。銀行家で、後にデトロイト銀行(英語版)頭取にまでなった。
1945年からアメリカで第二次世界大戦後の連合軍占領下ドイツのインフレ問題に取り組む。その後、1949年2月から日本でドッジ・ラインとして知られる経済政策を立案・勧告した。1953年にはドワイト・D・アイゼンハワー政権で第10代行政管理予算局長官に就任し、1954年までこの職務を務めた。 1890年11月18日にミシガン州デトロイトにて、ポスター画家ジョセフ・チーズマン・ドッジの長男として誕生する[1][2]。ドッジは3人兄弟で、弟と妹がいる[2]。幼少期は父に連れられてハイキングやキャンプを経験し、森林探検家になることを夢見ていたが、母のガートルードは「私はジョゼフが銀行家になることを確信しています。ジョゼフは同年代の男の子の中で唯一人、手が泥塗れになるのを嫌がっていましたから」と述べている[2]。 1908年にデトロイト中央高校を卒業して保険会社の事務員となるが、翌1909年にデトロイト銀行
来歴
生い立ち
銀行家
1932年には世界恐慌による経営悪化を受けてダッジの役員を辞任し、1933年にファースト・ナショナル・バンクの副頭取に就任する[2]。同行は金融危機により経営破綻するが、ドッジはその後デトロイト国立銀行(英語版)の創設に関わった。この功績により、同年にはデトロイト銀行頭取に就任し、1953年1月まで務めた。ドッジは少しでも損失リスクのある企業家への融資を拒否するなど経営に対して厳しい態度で臨んだため多くの顧客を失ったが、それにもかかわらず38万人の新規顧客を獲得するなど手腕を発揮した[2]。
1941年、アメリカ陸軍の経理部門主任を務め、不要な政府支出を抑えるために軍需企業を監視し価格調整に努め、1942年のアメリカ陸軍航空隊中西部中央調達地区価格調整委員会の会合で提言した[1][3]。1943年には陸軍省軍需委員会議長に就任し、6つの政府機関の軍需物資の価格調整を担当した[1][2]。 1945年8月、ドイツ占領アメリカ軍政府のルシアス・D・クレイ
独墺の金融再建
連合軍占領下のオーストリアでは、賠償金に関する諮問委員会が設立された[3]。ドッジはドイツマルクが発行されるまでの間、オーストリアの金融政策が主な担当となり、1947年5月にハリー・S・トルーマンから諮問委員会のアメリカ代表に任命された。また、ジョージ・マーシャルの代理として外相理事会ロンドン会議に出席した[3][1]。
1948年1月、金融政策顧問を辞任し、「マーシャル・プラン実施のための経済協力、財政、金融問題に関する諮問委員会」の委員に任命され、1951年まで務めた[3]。
日本の金融再建ジョゼフ・ドッジ(右)と池田勇人(左)
1949年2月、GHQの金融政策顧問に任命され、公使としてGHQ統治下の日本に赴任する[4]。この役職はトルーマンによって閣僚に準じる権限を与えられていたが、ドッジはドイツでの成功にもかかわらず就任を二度辞退している[3][5]。
占領下の日本は競争力の脆弱さにより輸出が伸びず、また国内では傾斜生産方式に基き復興金融金庫から基幹企業に大量の融資が行われたため戦後インフレが発生していた[6]。ドッジはこれらを是正するため「緊縮財政や復興金融金庫融資の廃止による超均衡予算」「日銀借入金返済などの債務償還の優先」「1ドル=360円の単一為替レートの設定」「戦時統制の緩和」「自由競争の促進」を柱とする金融政策を実施した[5]。