ジョゼフ・ジョフル
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ジョゼフ・ジャック・セゼール・ジョフル
Joseph Jacques Cesaire Joffre

渾名パパ・ジョフル
生誕1852年1月12日
フランス共和国ピレネー=オリアンタル県 リヴザルト
死没 (1931-01-03) 1931年1月3日(78歳没)
フランス共和国パリ
所属組織フランス陸軍
軍歴1871 - 1919
最終階級陸軍中将
(General de Division[1][2][注釈 1])
指揮フランス軍総司令官
第2軍団司令官
第6歩兵師団長
戦闘普仏戦争
第一次世界大戦
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ジョゼフ・ジャック・セゼール・ジョフル(フランス語: Joseph Jacques Cesaire Joffre, カタルーニャ語: Josep Jaume Cesar Joffre i Plas、1852年1月12日 ? 1931年1月3日)はフランスの陸軍軍人。第一次世界大戦初期にフランス陸軍総司令官を務めた。マルヌの奇跡を起こし「ジョセフパパ」と言われ慕われていた。
経歴

スペインとの国境に近いリヴザルト出身。カタルーニャ人のワイン樽職人の家に生まれる[3]。1869年にエコール・ポリテクニークを132人中席次14で卒業。陸軍に少尉として任官。砲兵連隊に配属される。1870年普仏戦争に従軍し、パリ攻囲戦に参加。1871年、工兵連隊所属になる。1872年中尉を拝命。パリ城壁の再構築やモントリニョンの要塞建築に携わる。1876年大尉に昇格。1885年からは台湾で任務に就く。清仏戦争の最中トンキンに赴任。1888年少佐となり1892年にフランス領スーダンへ転属。現地での紛争解決の功績を認められ1894年中佐[4]。1895年マダガスカルジョゼフ・ガリエニ将軍の元、ディエゴ・スアレス要塞の担当となった。1901年に少将[1][2]、1903年にヴァンセンヌの第19騎兵旅団長に任ぜられる。次いで1904年に陸軍省の工兵局長に任ぜられた。1906年、パリの第6歩兵師団長となり、中将[1][2]に昇任。1907年に陸軍士官学校監察官。翌年にはアミアンの第2軍団の指揮を任された。1910年には戦争最高顧問となり、対ドイツ戦争の作戦策定に関わるようになる。

1911年にはガリエニ将軍の推薦を得てフランス陸軍最高司令官となった。同年に第二次モロッコ事件が起こると、イギリス軍のヘンリー・ヒューズ・ウィルソン元帥はパリに赴き、ジョフルに対独連携と有事の際の英軍の大陸派遣を提案した。両国の参謀本部が初めて連携した瞬間だったとジョフルは回顧する[5]。しかしながら、両国ともドイツ軍と戦うほどの力は持ち合わせていなかった。1922年の訪日時(右は秋山好古令夫人・令嬢と共に奈良を訪問。

そこで、ジョフルは最高司令官として陸軍の刷新を図り、アフェール・デ・フィッシュ(フランス語版)[注釈 2]によって敢えて分散されていた指揮系統の集約を始める。また1913年7月には、3年間の徴兵制を導入。

1914年4月15日、対ドイツ軍事計画「プラン17」を導入。参謀本部のルイ・ド・グランドメゾン(フランス語版)大佐を中心として策定されたこの計画の目的は、普仏戦争で失ったアルザス=ロレーヌの奪還であった。またジョフル自身も兵の進路の策定に携わっている。しかし、ジョフルは軍を動かすだけの器を持ち合わせておらず、「参謀の使い方も知らない」と言われたほどであった[6]。議会で急進勢力が勢いを増すと司令官の職を解任される。

第一次世界大戦が勃発すると復権し、フランスはこの計画の下ドイツと戦うこととなった。同年、レジオンドヌールグランクロワ受章。緒戦におけるドイツの攻撃を防ぐことに成功するが、それには多くの兵士たちの命が犠牲となった。その後ヴェルダンの戦いソンム攻勢で大きな損害を受けると元帥の称号を得てニヴェルに最高司令官の座を譲った。1919年退役。アカデミー・フランセーズの会員となる。

1922年1月、前年の皇太子(昭和天皇)の欧州訪問に対する答礼使として家族同伴で来日し、東京や関西を訪問した[7]
栄典

レジオンドヌール勲章グランクロワ

バス勲章ナイト・グランド・クロス

メリット勲章

カンボジア王室勲章(英語版)グランクロワ

アラウィー朝勲章(英語版)

ラーマーティボーディー勲章ナイト・グランド・コマンダー

注釈^ フランス元帥は称号であって階級ではない。
^ 1904年?05年にかけて発覚した政治汚職


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