ジョゼフ・コンラッド
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ジョゼフ・コンラッド
Joseph Conrad

誕生1857年12月3日
ロシア帝国、キエフ郡ベルディチュフ
死没1924年8月3日
イギリス
イングランドケント州ビショップスボーン
職業作家
国籍 イギリス
主題小説随筆
代表作『闇の奥』、『ロード・ジム』、『密偵』
デビュー作『オールメイヤーの愚行』
ウィキポータル 文学
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シュラフタとしてのコジェニョフスキ家の家紋。「ナウェンチ(Na??cz)紋章」と呼ばれる。

ジョゼフ・コンラッド(英語: Joseph Conrad, 1857年12月3日 - 1924年8月3日)は、ポーランド出身のイギリス小説家。ジョウゼフ・コンラッドとも表記される。ロシア領ポーランドに生まれ、フランス・イギリス船での船員生活を経て英語を学び、英語による小説を発表。経験を元にした海洋文学などで知られ、作品には『闇の奥』、『ロード・ジム』、『ノストローモ』、『文化果つるところ』、『密偵』などがある。本名はユゼフ・テオドル・コンラト・コジェニョフスキ(Jozef Teodor Konrad Korzeniowski)。
生涯父アポロ・コジェニョフスキ(1820?1869)
生い立ち

当時のロシア帝国キエフ県のベルディチフ(英語版)(現ウクライナジトーミル州[1]に、没落したシュラフタ(ポーランド貴族)の小地主であった父アポロ・コジェニョフスキと母エヴァの子として生まれる。コジェニョフスキ家は1830年の11月蜂起に加担したことで所領を没収されていて、父はロシア支配下のポーランドにおいて独立運動を指導していたが、コンラッドが4歳の時に摘発されて投獄され、有罪が確定すると、翌年に北部ロシアのヴォログダへの一家で流刑とされた。1863年にウクライナのチェルニーヒウに移され、そこで母は結核にかかり、1865年に一時的に所領に戻った時に母は死亡した。

父は文学研究者でもあり、フランス文学イギリス文学にも造詣が深く、愛国的な詩や戯曲の執筆、出版もしていたが、幼少期のコンラッドはこの父影響で、シェイクスピアディケンズユゴー、またポーランドの古典に親しみ、フランス語を習い、海洋文学に出会い感化された。1868年に母方のボブロフスキ家の尽力によって流刑を解かれ、西ウクライナのルヴフに移ることを許可されたが、結核を患っていた父はその翌年クラクフに移った直後に死去。コンラッドは母方の伯父であるタデウシュ・ボブロフスキに引き取られて、この地で祖母と暮らしながら家庭教師による教育を受けた[2]ワルシャワの目抜き通り新世界通り47番。コンラッドは1861年、3歳のとき両親とここに住んでいた。[3][4]
船員時代

1873年にルヴフのギムナジウムに通うようになり早熟さを発揮したが、16歳になった翌年、健康上の理由で進級できず、伯父に船乗りになりたいという希望を伝えた。伯父は思いとどまらせようと、家庭教師とともにイタリアスイスなどを巡る旅行にも送り出したりもしたが、意思は固く、そのつてによってマルセイユへ渡って、フランス商船の船員となった。西インド諸島マルチニックなどへ航海し、時にコロンビアベネズエラに密輸物質の運搬にも関わった。その後密貿易へのに投資話しに騙され、モンテカルロで賭博に手を出して一文無しになり、1878年にマルセイユで拳銃自殺を図った[2]。回顧録によれば、コンラッドの乗る船は武器密輸や国家間の政治的陰謀にも関わっていた。1878年、20歳になると流刑囚の子に課されるロシアの兵役を忌避したと見なされてフランス船には乗れなくなり、英国船に移り勤務し、以降英語を学びつつ、マルタ島イスタンブールアゾフ海などを経て、イギリス本土のサフォーク州ロースロフトに着き、石炭運搬船に乗り込み、ついでシドニーなどへ航行したのち、ロンドンの訓練学校に通って二等航海士の資格を得て、インド、シンガポールなどに航行する[2]。この時に得た見聞が、後のコンラッドの小説に大きな影響を及ぼした。経験を積んで1884年には一等航海士の試験に合格。1886年には船長試験に合格し、またイギリス国籍を取得して、ジョゼフ・コンラッドと改名した。「トレンズ号」コンラッドは1891-93年にこの船の一等航海士としてロンドンからアデレードまで2度航海した

1889年に帰国して『オルメイヤーの阿房宮』の執筆を始める。当時デイヴィッド・リヴィングストンヘンリー・モートン・スタンリーの探検によりアフリカへの注目が集まると、1890年にベルギーの象牙採取会社の船の船長となって、コンゴ川就航船に乗り[5]、さらに陸路でレオポルドヴィル(キンシャサ)まで行き、船を乗り換えてキサンガニに到達、その後病に倒れ、1891年にブリュッセル経由でロンドンに戻った。またこの年には痛風神経痛による右手の痛み、マラリアの再発のために数ヶ月入院し、また伯父のアドバイスに従ってスイスの温泉で療養した[6]。その後はイギリスとオーストラリアを往復する旅客船に乗ったり、船員以外の仕事をしていた。1893年にオーストラリアとニュージーランドから戻る船には、のちに作家となるジョン・ゴールズワージーとエドワード・ランスロット・サンダーソンの二人の若いイギリス人が乗っており、コンラッドにとって船員以外に最初に友情を結んだイギリス人だった。ゴールズワージーの習作「The Doldrums」の主人公はコンラッドがモデルとなっている。
作家活動

1894年に処女小説『オルメイヤーの阿房宮』の原稿を出版社に送り、批評家エドワード・ガーネットに推薦されて、1895年に出版された。これはマレーシアを舞台とした物語で、英語によって書かれた。幼少期から青年期に至るまで、ロシア語ポーランド語フランス語を使用し、最後に学んだ英語によって小説を書き上げたことは特筆に値する。この小説は好評をもって当時の社会に受け入れられた。これにより、同時代の他の文学者たちとの交流も始まっていった。エドワード・ガーネットにはまた「きみは自分のスタイルを持っている。きみは自分の文体をもっているし、情熱的な強い気質をもっている、なぜ、もう一つ、書かないんだね?」と励まされ、第2作『文化果つるところ』を書いて作家としての道を進むこととなった[7]。1896年に16歳年下のイギリス人女性ジョシー・ジョージと結婚し、ケント州に居住して作家活動を始め、ボリスとジョンの二人の息子をもうけた[6]。そしてこの2作によって、コンラッドはエキゾチックな舞台でのロマンチックな語り手と見なされるようになった。

1899年、『闇の奥』(Heart Of Darkness)を発表した。西洋文化の暗い側面を描写したこの小説は、英国船時代にアフリカ・コンゴ川で得た経験を元に書かれたもので、T・S・エリオット荒地』、ユージン・オニール『皇帝ジョーンズ』、F・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』、ジョージ・オーウェル1984年』などにも影響を及ぼした。


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