ジョゼフ・コニー
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ジョゼフ・コニー (Joseph Kony, 1962年 - ) はウガンダの反政府勢力神の抵抗軍 (LRA) の指導者。霊媒であると主張し、聖書十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、ウガンダ北部を中心として1987年以降残虐行為を伴い、また少年兵を使ってゲリラ闘争を続けている[1]
目次

1 生い立ちと神の抵抗軍の結成

2 テロ組織認定まで

3 ICCによる起訴

4 主張

5 KONY 2012

6 アメリカ政府の対応

7 脚註

8 外部リンク

生い立ちと神の抵抗軍の結成

コニーは母ノラ・アネク・オティング[2]の子としてアチョリ地方西部グル県のオデクの村でアチョリ族の母子家庭に生まれた。父親については一切知らないと語っている。

高校で落第したコニーが初めて頭角を顕したのは1987年1月、26歳の時だった。コニーはラクウェナと名乗ったアリス・アウマの聖霊運動の影響でアチョリ地方で盛んとなった前千年王国運動の一つに参加していた。1986年に「ブッシュ戦争」がヨウェリ・ムセベニ国民抵抗軍 (NRA) によりアチョリ族出身のティトー・オケロ大統領を倒して終わると、アチョリの影響力の相対的な低下に対する憤りから北部で紛争が起った。

当初コニーのグループは統一聖救世軍 (UHSA)と名乗っており、NRA にとって脅威ではなかったが、1988年までにNRAとウガンダ人民民主軍 (UPDA) の停戦による残党の合流と少年兵の徴発により UHSA は侮れない抵抗軍となった。UPDAの残党のオドン・ラテク司令官などはそれまでの十字隊列での突撃や聖水の使用等の試みに反対し、通常の戦略を用いるようにコニーを説得した。USHAはNRAに対し小さいながら幾つかの勝利を得た。これに対しNRAは政治的な対応と北部作戦と名付けられた軍事作戦でUHSAの勢力を減退させた。

1992年までにコニーは軍勢を統一民主キリスト教軍に改名した。そしてこの頃44人の女学生を誘拐した。
テロ組織認定まで

1993年からコニーは組織名を現在の神の抵抗軍 (LRA) に改めた。北部作戦で壊滅し数千人規模から数百人規模となったLRAは、NRAの協力者と住民に報復攻撃を続けた。

和平担当大臣のベティ・オイェラ・ビゴンベと数度会談したのも、この時期であった。ビゴンベが最後にあった時に部下はや灰を塗って弾や悪霊を避けていた[3]。また手紙で会談の日程について決める際に聖霊と相談すると書いていた。会談を始める際にはLRAの宗務責任者のジェナロ・ボンゴミが祈りを始めた。1994年の最後の会談時にも聖水を撒く男と共に現れた[4]

1994年スーダンのオマル・アル=バシール政権の支援を受け暴力が増大した。1996年から2001年まで様々な国際団体がコニーとLRAによるこどもの誘拐を終わらせようと試みた。誘拐や強姦、少年兵などの市民の犠牲は難民キャンプにも及んだ。

現在のウガンダ国軍であるウガンダ人民国防軍 (UPDF) は、コニーを反乱者として殺害しようと試み続けた。だが、UPDFは現大統領ヨウェリ・ムセベニが反政府組織として結成した国民抵抗軍 (NRA) を前身としており、かつては程度の差こそあれ、NRAもLRAと同様の行為を行っていたことが国際的に批判されている。
ICCによる起訴

2005年10月6日国際刑事裁判所 (ICC) は署名付きの告発を受け人道に対する罪によってLRAの幹部5人に逮捕状が発給されたと発表した。これは初めてICCが発行した逮捕状だった。翌日ウガンダの国防相アママ・ムババジは対象者がコニーと副官のビンセント・オッティ、ラスカ・ルクウィヤ、オコト・オディアンボ、ドミニク・オングウェンの3司令官であると認めた。後に軍の広報官によればルクウィヤは2006年8月12日にウガンダ軍に殺害された[5]

1週間後の10月13日ICCの主任検察官ルイス・モレノ=オカンポはコニーの起訴状の詳細を公表した。33の罪状が挙げられ、うち13が殺人や奴隷化、性奴隷化、強姦などの人道に対する罪であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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