ジョゼフ・キャンベル
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ジョーゼフ・キャンベル
Joseph Campbell
誕生Joseph John Campbell
(1904-03-26) 1904年3月26日
アメリカ合衆国
ニューヨーク州ホワイト・プレインズ
死没 (1987-10-30) 1987年10月30日(83歳没)
ハワイ州ホノルル
職業学者
国籍 アメリカ合衆国
配偶者ジーン・アードマン・キャンベル,
(ダンサー/振り付け師)
影響を受けたもの

アドルフ・ブリスチャン, フリードリヒ・ニーチェ, オズワルド・スペングラー, ジークムント・フロイト, カール・グスタフ・ユング, ハインリッヒ・ジマー, ジェイムズ・ジョイス, トーマス・マン, アルトゥル・ショーペンハウアー, レオ・フロベニウス

影響を与えたもの

ジョージ・ルーカス, アラン・ワッツ, ジム・モリソン, ダン・ハーモン

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ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell、1904年3月26日 - 1987年10月30日)は、アメリカ合衆国神話学者。ジョゼフ・キャンベルと表記されることもある[1]比較神話学比較宗教学で知られる。

彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」(Follow your bliss)という一文に要約される。



生涯
幼少期?学生時代

ジョーゼフ・キャンベルはニューヨーク州のホワイト・プレインズで上流中産階級のローマ・カトリックの家庭に生まれた。キャンベルは幼い頃、父親に連れて行ってもらったニューヨークのアメリカ自然史博物館で展示されていたネイティブ・アメリカンの工芸品を見てからというものすっかりネイティブ・アメリカンの文化に魅了された。ネイティブ・アメリカンの社会について様々な側面から精通するようになり、とくにネイティブ・アメリカンの神話について詳しく知るようになった。この事がキャンベルの生涯を通しての神話への情熱となり、かけ離れた文化の神話の中に存在するわずかな共通点を見出していくという彼の研究へのきっかけとなった。

1921年、コネチカット州ニュー・ミルフォード市にあるカンタベリースクールを卒業し、ダートマス大学に在学中は生物学と数学を学んだが、人文学を得意としていた。コロンビア大学に転校し、1925年にイギリス文学の学士号を取得し、1927年には中世文学の修士号を取得した。ダートマスでデルタ・タウ・デルタDelta Tau Deltaに加入した。また、キャンベルは一流のアスリートでもあり、陸上の大会で数々の賞を受賞した。一時期はハーフマイル走の世界記録を持っているほどであった。
ヨーロッパ

1924年、キャンベルは家族とヨーロッパを訪れた。帰路の船上で彼はジッドゥ・クリシュナムルティと遭遇し、アジアの哲学について議論した。このことがキャンベルの長い人生の中でヒンドゥーとインドの思想について興味を持つきっかけとなった。この旅行の直後、彼はカトリックの宗教活動をやめた。

1927年、キャンベルはコロンビア大学の特別研究員としてヨーロッパに留学した。パリの大学とミュンヘンの大学で、古フランス語プロヴァンス語サンスクリット語を勉強した。彼はたった2、3カ月の厳しい勉強の後、すぐにフランス語とドイツ語を話せるようになった。彼はこれらの言語を、彼の残りの人生で流暢に話し続けた。(すでにラテン語を流暢に話せた彼は、彼の言語の幅を広げるため、日本語を身につけるつもりであった。)

第一次世界大戦後のヨーロッパ(ロスト・ジェネレーションの時代)から大きな影響を受けた。キャンベルは特にジェイムズ・ジョイストーマス・マンの作品から影響を受けたと語っている。

現代美術、特にパウル・クレーパブロ・ピカソを熱心に研究し、また、ジークムント・フロイトユングの著書を読んだ。
世界恐慌

ヨーロッパから戻ってきた1929年にキャンベルはコロンビア大学の教授にヨーロッパへの留学は彼の興味を広げたこと、そして中世文学のためにサンスクリット語と現代美術を学びたいことを伝えた。しかし担当教官がこれを支援しなかったために彼は卒業のための単位稼ぎを辞めて二度と型にはまった卒業の計画には戻らなかった。(指導教官がキャンベルを狭いアカデミズムの中に閉じこめようとしたため、博士号を取る勉強をする代わりに森に入って本を読んだ、という[2]。)
サラ・ローレンス大学、結婚

1934年、ニューヨーク州の名門女子大学サラ・ローレンス大学の教授になった[3](彼の元コロンビアのアドバイザーのW.W.ローレンスの努力による)。同大学では1972年に定年となるまで、38年間教えた。

1938年、キャンベルは彼の元学生のダンサー兼振り付け師のジーン・アードマンと結婚した。彼らはニューヨーク市のグリニッジ・ヴィレッジの部屋のアパートで彼らの49年間の結婚生活のほとんどを共にした。 1980年代、彼らはまた、ホノルルのアパートを購入し、2つの都市の間で自分達の時間を過ごした。2人の間には子供はいなかった。
著作などの活動

1944年、『「フィネガンズ・ウェイク」を開く親かぎ』(共著)を刊行[4]

1949年、『千の顔をもつ英雄』で神話の基本構造を論じた。

1956年、インドと日本の旅行から帰ってくると、キャンベルは「海外で働いて勉強している一般の大衆や専門家のアメリカ人は、世界の神話と文化を注視する情報をもたされていない」と感じた。この問題の克服に向けた仕事を始めた。

1959年より、キャンベルは代表作『神の仮面(the Masks of God)』を刊行開始した。この作品で、何千年もの地球上の世界の文化の神話を調べたものだ。この時期から国務省の外務職員局で、神話と宗教を比較する講義を始めた。以後生涯を通じ、世界の神話について大学や、教会、公会堂などで公に講演し、ラジオやテレビでも担当講座を持ち続けた。
神話の力、死

ジョーゼフ・キャンベルは、1985年から翌年にかけ、ビル・モイヤーズとの対談でテレビ番組6本『神話の力(英語版)』が製作[5]された。食道がんの併発から1987年10月30日に、ハワイのホノルルの自宅で亡くなった。インタビュー番組『神話の力』は没後放送され、1998年に書籍化された。他に遺作『The Hero's Journey(英語版)』が製作され、1990年に著作版(英語版)も刊行された。
日本語訳一覧

千の顔をもつ英雄』平田武靖・浅輪幸夫監訳、伊藤治雄・春日恒男・高橋進訳人文書院(上下)、1984年、オンデマンド版2004年


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