ジョゼフ・キッティンジャー
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ジョゼフ・W・キッティンジャー II
Joseph W. Kittinger II
大尉時代のキッティンジャー
渾名ジョー
生誕1928年7月27日
アメリカ合衆国 フロリダ州タンパ
死没 (2022-12-09) 2022年12月9日(94歳没)
所属組織 アメリカ空軍
軍歴1950 - 1978
最終階級空軍大佐
戦闘ベトナム戦争
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エクセルシオのゴンドラの横に立つキッティンジャーキッティンジャーの記録的ダイブ

ジョゼフ・ウィリアム・キッティンジャー2世(英語: Joseph William Kittinger II, 1928年7月27日 - 2022年12月9日[1])は、アメリカ空軍の職業軍人パイロットプロジェクト・マンハイおよびプロジェクト・エクセルシオに参加したことと、ガス気球による最初の単独大西洋横断飛行を行ったことで有名。ベトナム戦争には戦闘機パイロットとして従軍し、撃墜されて11ヶ月を北ベトナムの捕虜収容所で過ごした。
生い立ちおよび初期の軍歴

キッティンジャーはフロリダ州タンパで生まれ、フロリダ大学に入学した。ティーンエイジャーの頃はモーターボートレースに参加していた。1949年3月にアメリカ空軍に入隊し、航空士官候補生課程を1950年3月に終えると、パイロット資格を取得して少尉に任官した。その後、西ドイツラムシュタイン空軍基地の第86戦闘爆撃航空団に赴任し、F-84サンダージェットF-86セイバーに搭乗した。

キッティンジャーは1954年に、ニューメキシコ州ホロマン空軍基地にある空軍ミサイル開発センター(AFMDC)に転属した。彼はここで1955年に、航空医官ジョン・ポール・スタップ大佐が搭乗して時速632マイル(1,011 km/h)で地上走行するロケットスレッドを空中から追尾・観察した。キッティンジャーはスタップの宇宙医学の先駆者としての献身とリーダーシップに強い印象を受けたが、一方、スタップもキッティンジャーの卓越した操縦技術に感銘を受けており、後に彼を宇宙関連の航空研究事業に推薦することとなった。スタップは高高度における気球試験を推進する役割を持っていたが、それが後にキッティンジャーの10万2,000フィート(31,000 m)以上からの記録的なジャンプにつながることになった。1957年、「プロジェクト・マンハイ」の一環である「マンハイI」として、キッティンジャーは96,760フィート(29,500 m)の仮の気球高度記録を樹立し、これにより1回目の空軍殊勲十字章を受けた。
プロジェクト・エクセルシオ詳細は「プロジェクト・エクセルシオ」を参照

キッティンジャー大尉はオハイオ州デイトンライト・パターソン空軍基地の航空宇宙医療調査研究所に配属され、そこで高高度緊急脱出の研究を目的とする「プロジェクト・エクセルシオ」(これはスタップ大佐が命名した)の一環として、巨大なヘリウム気球に吊られた開放式ゴンドラからの超高空パラシュート降下を3回行った。

キッティンジャーの1回目の超高空ジャンプは1959年11月16日に高度およそ23,300 mから行われたが、器材の故障により意識を失い、危うく惨事となるところだった。彼の命を救ったのは装備していた自動開傘器であった(このときキッティンジャーは毎分およそ120回の水平回転に入り、彼の四肢には重力の22倍以上のGが加わった。そしてこれも一つの記録となった)。同年12月11日、彼は再び約22,760 mからジャンプを行った。これによりキッティンジャーは「レオ・スティーヴンス・パラシュート・メダル」を授与された。

1960年8月16日、彼は「エクセルシオIII」から、高度10万2,800フィート(31,330 m)の最後のジャンプを行った。このときは初期姿勢制御のために小型のドローグ・シュートを使用した。彼は4分36秒間落下し、高度18,000フィート(5,500 m)でパラシュートが開くまでに最大速度は毎時614マイル[2][3](988 km/h、毎秒274 m)に達した。このとき、上昇の途中で故障していた右の手袋の加圧のために、彼の右手は通常の2倍にまで腫れ上がった[4]。このジャンプにおいて、キッティンジャーは、気球による上昇高度、パラシュート降下高度、ドローグ落下時間(4分)、空中で乗り物に乗らずに人間が出した速度など、数々の最高記録を打ち立てた[5]。しかしこれらは国際航空連盟(FAI)には航空宇宙の世界記録として提出されず、アメリカ空軍内の記録にとどまっている。

これらのジャンプは、スカイダイビングでは一般的な、顔を下にした姿勢ではなく、背中を下にする「ロッキングチェア」姿勢で行われた。それは彼が60ポンドの装備を背中に装着しており、また、着用した与圧服が膨らんだときは自然に飛行機のコックピット内に座った姿勢になるからであった。この一連のジャンプによって、キッティンジャーは2回目の空軍殊勲十字章を授与され、また、アイゼンハワー大統領からハーモン・トロフィーを授けられた。
プロジェクト・スターゲイザー

ホロマン空軍基地に戻ったキッティンジャーは、1962年12月の13日から14日にかけて行われた「プロジェクト・スターゲイザー」に参加した。彼と天文学者ウィリアム・C・ホワイトは、およそ82,200フィート(25,050 m)の高度に、科学器材で詰まった開放式ゴンドラを下げたヘリウム気球で上昇し、そこで18時間以上を費やして天文観察を行った。
その後の軍歴

キッティンジャーはベトナム戦争に3回にわたって従軍し、合計483回の飛行任務をこなした。1回目と2回目の従軍のときは、ダグラスA-26インヴェーダーおよび「オンマーク・エンジニアリング」改良型のB-26「カウンター・インヴェーダー」の機長として、ファーム・ゲート計画およびビッグ・イーグル計画に参加した。2回の任務を終えて帰国した後、彼は直ちにマクダネル・ダグラスF-4ファントムIIに機種転換した。志願して行った1971年から翌年に掛けての3回目のベトナム従軍では、彼はF-4D ファントムIIに搭乗し、第555戦術戦闘飛行隊(555TFS、「トリプル・ニッケル」として有名な部隊)を指揮した。その後、第432戦術偵察航空団の副司令としても勤務した。この期間中、北ベトナムミグ21を撃墜する戦果を挙げている[6]

キッティンジャーは3回目の従軍期間が終わろうとする直前の1972年5月11日に撃墜された。キッティンジャー中佐は戦術士ウィリアム・J・ライク中尉とともにF-4D(シリアル66-0230)に搭乗し、1機のミグ21戦闘機と戦いながら、北ベトナムのタイ・グエン村北西およそ5マイルの地点を飛行していた。キッティンジャーとその編隊機はミグ21を追っていたが、キッティンジャー機の右翼に空対空ミサイルが当たり、機は損傷を受けて炎上した。キッティンジャーとライクは脱出したが、すぐにタイ・グエンから数マイルのところで捕らえられ、ハノイ市に連行された。彼らが追っていたミグ21はそのすぐ後にキッティンジャーの僚機であったS・E・ニコルズ大尉の機に撃墜された[7]

キッティンジャーとライクは捕虜として「ハノイ・ヒルトン」収容所で11ヵ月を過ごした。キッティンジャーはそこの新しい(1969年以後に捕らえられた)捕虜の最先任士官であり、ジョン・D・シャーウッドの本("Fast Movers")によれば、彼はそのリーダーシップについて捕虜仲間と対立していたということである。彼は、捕虜にさらなる拷問が加えられるような事態を避けるため、血の気の多い下級士官を自らの指揮権の下にとどめておこうとした。キッティンジャーは捕虜居住区域に着いてすぐに「ロープの拷問」を経験しており、そのことが彼にずっと影響を与えていた。キッティンジャーとライクは1973年3月28日にアメリカの手に戻され、空軍での勤務を続けた。キッティンジャーはその後まもなく大佐に昇進した。
退役後の経歴1999年のキッティンジャー

キッティンジャーは1978年大佐の階級で空軍を退役した。そして最初に、フロリダ州オーランドマーティン・マリエッタ社で働いた。


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