Joseph Addison
ジョゼフ・アディソン
生誕 (1672-05-01) 1672年5月1日
イギリス ウィルトシャー、ミルストン
ジョゼフ・アディソン(英語: Joseph Addison PC PC (Ire)、1672年5月1日 ? 1719年6月17日)は、イギリスのエッセイスト、詩人、劇作家、政治家、文学者。ジョゼフはジョセフ、アディソンはアジソンと訳される事もある。熱心なホイッグ党の支持者であり、アン女王の治世に友人のリチャード・スティール(英語版)と共にエッセイ新聞『スペクテイター』(1711年 ? 1714年)を創刊して[1]、18世紀市民文学の基礎を確立したことで知られる[2]。 聖職者ランスロット・アディソン
生涯
生い立ち
1687年7月12日、アディソンはオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに入学した[5]。スティールも同じくオックスフォード大学に進学したが、彼が入学したのはクライスト・チャーチであり、1692年に学位を取得せずに大学を出た[6]。この時期のアディソンとスティールが連絡を取り合った証拠はなかった[6]。
古典学に秀でたアディソンはクイーンズ・カレッジのフェローだったウィリアム・ランカスター(英語版)博士の注目を受け、ランカスターの尽力により1689年7月30日から1697年まで同大学モードリン・カレッジのデミシップ(英語版)(demyship、奨学金の一種)を得た[1][6][5]。その後、1691年にB.A.の学位を、1694年2月14日にM.A.の学位を修得した[1]。1697年5月30日に仮採用でフェローに就任した後[6]、1698年に正式に就任、1711年まで務めた[1]。
在学中にジョン・ドライデンに詩作を献呈しており、この詩は1693年6月にドライデンが出版した詩集Examen Poeticumに含まれた[6]。1695年にPoem to his Majestyを国璽尚書のジョン・サマーズ(のちの初代サマーズ男爵)に献呈、1697年にラテン語の詩Pax Gulielmi auspiciis Europeae redditaを財務大臣チャールズ・モンタギューに献呈した[6]。これらの努力により、のちにモンタギューやサマーズがアディソンのパトロンになった[6]。 モンタギューの尽力で政府から200ポンドを与えられたアディソンはグランドツアーに出た[6]。1699年8月にドーバーから出発してカレーに向かい、続いてパリについた[6]。パリではオペラを、ヴェルサイユではルイ14世の肖像画を鑑賞したが、フランス語をあまりはなぜなかったため、12月にブロワに移動してフランス語の勉強をはじめた[6]。ブロワではフランス語の教師から指導を受け、教師とともに晩餐をとる以外はほとんど誰にも会わず、隠居に近い状況だったが[1]、エドワード・ウォートリー・モンタギューが訪れてきたときは一緒にフランス中部を旅した[6]。以降エドワード・ウォートリー・モンタギューとその妻メアリーは最後までアディソンの友人であり続けた[6]。1700年夏[6]にパリに戻ったときには哲学者ニコラ・ド・マルブランシュや詩人ニコラ・ボアロー=デプレオーとの対話で問題が生じないほどフランス語が上達した[1]。
グランドツアー