ジョセフ・マッカーシー
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この項目では、アメリカ合衆国の政治家について説明しています。その他の用法については「ジョセフ・マッカーシー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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アメリカ合衆国政治家ジョセフ・レイモンド・マッカーシーJoseph Raymond McCarthy
1954年
生年月日 (1908-11-14) 1908年11月14日
出生地 アメリカ合衆国
ウィスコンシン州グランド・シュート
没年月日 (1957-05-02) 1957年5月2日(48歳没)
死没地 アメリカ合衆国
メリーランド州ベセスダ
出身校マーケット大学
前職巡回裁判官
所属政党民主党(1936 - 1944)
共和党(1944 - 1957)
称号 殊勲飛行十字章
法学士
配偶者ジーン・フレイザー・ケール・マイネッティ
サイン
アメリカ合衆国
上院議員
選挙区ウィスコンシン州
在任期間1947年1月3日 - 1957年5月2日
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ジョセフ・レイモンド・“ジョー”・マッカーシー(Joseph Raymond "Joe" McCarthy, 1908年11月14日 - 1957年5月2日)は、アメリカ合衆国政治家ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(任期:1947年1月3日 - 1957年5月2日)。

マッカーシーとそのスタッフは、「マッカーシズム」と呼ばれたアメリカ合衆国政府と娯楽産業における共産党員と、共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動で知られる[1]
経歴
生い立ち従軍中のマッカーシー

1908年11月14日にウィスコンシン州グランド・シュート(英語版)で、アイルランド系の家庭(父方の祖父と母がアイルランド出身)に生まれる。実家は農場を経営していた。1930年から1935年までミルウォーキーのマーケット大学(英語版)で法律を学び、弁護士の資格を取った。シャワノの町の法律事務所で働きながら、1936年民主党員として治安判事になるための運動に乗り出したものの選出されず、1939年に巡回裁判官に当選した。
従軍

1941年12月にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦。マッカーシーは兵役免除を受けられる立場だったにも関わらず、海兵隊の大尉として軍務に就いた。彼は南太平洋の爆撃任務に照準手および後部銃座手として戦闘に参加し、このことから「テールガンナー・ジョー」という渾名が付き、彼自身も選挙運動などで好んで使った。

1944年にまだ軍務に就いていた彼は共和党に鞍替えすると共にウィスコンシン州の共和党上院議員候補者指名のための予備選挙に立候補したが、現職のアレクサンダー・ワイリー(英語版)を前に惨敗を喫した。1945年4月に軍隊を除隊した。
上院議員

巡回裁判官の地位を反対なく再選出された後、彼は1946年の上院議員選挙のためにより組織的な運動を始め、ウィスコンシン州現役上院議員のロバート・M・ラフォレット・ジュニア(英語版)に挑んで、激しい選挙運動の末僅差で候補者への指名を勝ち取り、本選挙でも民主党の対立候補に大差をつけて初当選した。

最初の上院議員の任期中、マッカーシーは注目されなかった。議会での法案投票において彼は保守的だったが、共和党の方針に完全に従ったわけではなかった。しかし大衆とメディアの注意を惹くことに長けていたマッカーシーは、たくさんの異なった組織に対し非常に多くの演説を行った。その主題は広範囲にわたっていた。彼の最も注目に値する初期のキャンペーンは住宅法と反砂糖配給制度だった。マッカーシーの横顔が全国的に知られるようになったのは、1950年2月9日ウェストバージニア州ホイーリングにおける共和党女性クラブでの演説の後だった。

マッカーシーの演説での言葉は、当時きちんと演説内容が記録されておらず、メディアの存在もきわめて少なかったため、現在議論の対象となっている。しかしこの時彼が1つの文書を示し「国務省で働いている著名な共産主義者のリストを持っている」と主張した点で、衆目は一致している。演説のある報告では「私は正規の党員であるかまたは共産党に確かに忠誠であると思われる人物の205人の実例のリストを手に持っている」としている。マッカーシー自身は、57人の既知の共産党員に言及したのであり、205人という数字は国務省に雇われている者のうち、色々な安全上の理由から雇うべきでない者の数であると述べている。述べられた正確な数は、マッカーシーに対する偽証罪の告発の時に一時問題となった。タイディングス上院議員

単に国家への忠誠心についてだけで無く、酒の飲み過ぎや無能力など、色々な問題点を持っている職員をリストしている国務省の文書が存在していたのは事実である。しかしマッカーシーの演説は、ヨーロッパにおけるソビエト連邦の侵略の可能性と、マッカーシーの演説と同時に進行しているアルジャー・ヒスの裁判に注目している国家にとっては衝撃的だった。

マッカーシー自身も演説へのメディアの大きな反応に驚き、そして絶え間なくその後告発し、共産党員数の両方をコロコロと修正したが、それは彼のやり方の特徴的な側面だった。数日後ユタ州ソルトレイクシティにおいて57人の数字を示し、そして2月20日の上院では81人と主張する、といった具合に。彼はこれら全ての例を議論したマラソンスピーチを行ったが、その根拠は希薄か、存在しないものだった。にも拘わらず、演説の衝撃は大きかった。上院は告発を調査するためミラード・タイディングス(英語版)を長とする委員会を招集し、これらは事実無根であることがそのうちに分かった。しかしマッカーシーのような有力な議員に対しては、所詮無力だった。彼は告発を少しだけ変え、そしてそれを上院や報道に対して示すのだった。
反共主義と赤狩りM・C・スミス上院議員
名指しはしなかったもののマッカーシーの「赤狩り」を批判する「良心の宣言」を発表した

1950年から1953年の間マッカーシーは、政府が内部にいる共産主義者を扱うことに失敗しているという非難をし続けたが、一方で彼が一夜でスターダムにのしあがったことは、力ある国民的追随者とかなりの収入を得ることになった。彼の収入は上院の委員団により調査され、その結果、彼のキャンペーンにおける問題ある行動と財政的な不正行為が明らかとなったが、法律的行動に出るための根拠を見つけられなかった。マッカーシーの赤狩りに告発者として協力したのは、ロナルド・レーガンリチャード・ニクソンウォルト・ディズニーゲイリー・クーパーロバート・テイラーエリア・カザンらだった。ディズニーは戦時中より熱烈な右翼として全米にその名が知られており、また、カザンは映画界の仲間を売ったという十字架を生涯背負うことになった。右派の政治家と、右翼活動家だったニクソン、レーガンの両名は後に大統領にまで上り詰めたが、ニクソンはウォーターゲート事件のため、不名誉な辞任をせざるを得なくなった。赤狩りでは、いわゆる「ハリウッド・テン」が訴追され、追放された。また、チャーリー・チャップリンやジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも影響を受けた。グレゴリー・ペック、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガードらは、赤狩りに反対した。

1952年における共和党の選挙勝利(大統領選勝利は20年ぶり)には、彼の攻撃が助けとなった。敗北した民主党候補者のうち、少なくとも一人は、マッカーシーによる非難に原因の一端がある。選挙勝利後、党の指導者は彼の人気の大きさをリベラルな民主党員を攻撃するための武器と認め、彼を上院政府活動委員会常設調査小委員会(英語: United States Senate Homeland Security Permanent Subcommittee on Investigations)の委員長に任命した。しかし彼が信頼できないところ、及び言い逃れしようとするところは、決して党(特にドワイト・D・アイゼンハワー大統領)に完全には信用されていないことを意味した。

彼の委員会は、下院非米活動委員会と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせた。それは最初「アメリカの声」の官僚組織への調査を行い、そして国務省の海外情報図書館から親共産主義的文献と考えられるものを強制排除させた。そればかりか政府与党に属しているにも関わらず、政府内部における共産主義者が影響力を及ぼしていると非難を始め、アイゼンハワーの怒りを買うことになった。彼は今も続いている人気からマッカーシーに公然と反対しようとはしなかったが、しかし今やマッカーシーを危険なルーズ・キャノン(自分勝手で信頼できない人物)と考え、彼を影響力ある位置から引き離すために秘密裏に工作するなど距離を一層置く様になった。

それでもマッカーシーに対する支持は止まることを知らず、ジョンズ・ホプキンズ大学教授のオーウェン・ラティモアを「合衆国におけるソビエトのNo.1スパイだ」として告発したばかりか、彼の前任上院議員だったラフォレット・ジュニアにまで調査の手を伸ばし、結果的に彼を自殺に追い込んでいる。
失脚
陸軍との対立

1953年の秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍への調査を始めたが、それは彼にとってマイナスの結果となった。委員会は、陸軍通信部隊におけるスパイ団を暴露しようとしたが失敗、委員会は歯科医官アーヴィング・ペレスを召喚したが、彼は立証のための質問で、20回にわたって権利章典修正第5条に基づく黙秘権を行使した。ペレスは軍隊の人間を共産党に勧誘したことを告発された。彼は「破壊組織」のメンバーに関する国防省のフォームにおける質問に答えることを拒否し、陸軍軍医総監は1953年初めに彼の解雇を勧告した。マッカーシーはペレスがその勧告のあと解雇されずに、そのかわり少佐の地位に昇進したことについて、真剣な関心があることを表明した。

この後者の問題を調査する中で、マッカーシーはラルフ・W・ツウィカー大将に対する扱いに関して、メディアを敵対的な側に回すことになった。マッカーシーはツウィカーの理解力を「5歳の子ども」の理解力と揶揄し、「大将の制服を着るにふさわしくない」と述べた。1954年初め、陸軍はマッカーシーと彼の助手で弁護士ロイ・コーンを、もう1人のかつての援助者でコーンの友人のG・デビッド・シャインに対し好都合な扱いをするよう、陸軍に対し圧力をかけたと告発した。マッカーシーは、非難は不誠実によるものであり、ツウィカーへの質問に対する報復であると主張した。
ロイ・コーンマッカーシーとコーンJ・B・マシューズ

昇進にあたって、マッカーシーは上院調査小委員会のスタッフを本質的に入れ替えたが、普通、前任者を解職することはない。注目すべきはロイ・コーンであった。コーンは、以前の商務省の雇用者でアメリカ共産党のメンバーに関し偽証で有罪となったウィリアム・レミントン(英語版)、ローゼンバーグ夫妻への熱心な告発や、そしてアメリカ共産党指導者への裁判で知られていた。なお、1995年に公開されたベノナの写しは、レミントンとジュリアス・ローゼンバーグがソ連のために働いていたことを証明したが、後述の通りマッカーシー自身はそのような証拠には触れていなかったとみられる(また、エセル・ローゼンバーグのスパイ行為は証明されていないが、夫のスパイ行為を知っていたことは証明されている)。

マッカーシーが小委員会の会議を主催することになった時、コーンは、何の法律的経験も持たない26歳の検察官だった。そのこともあり、コーンは聴聞を公開の場でやりたがらない傾向があった。これはマッカーシーの「議会秘密会」と「記録しない」会議を首都から遠く離れたところで行い、公開の精査と質問を最小限にするという好みとうまく混ざりあった。コーンは、調査のために「反ユダヤ主義的動機」という非難を避けることを選んだが、調査を追求する自由を与えられていた。

2、3人の注目すべき人物が、マッカーシーが委員会を主催するようになってすぐに委員会を辞めたが、その中にロバート・ケネディもいた。彼は委員会の「赤狩り」でも当初は活躍しマッカーシーとの関係も終生良好だったが、馬の合わないロイ・コーンとは文字通り殴り合いをした。辞職の際、ロバートは「他の委員(の辞職理由)に同調したわけでは無い」と言明している。


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