ジョセフ・ブルース・イズメイ
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1912年のイズメイ

ジョセフ・ブルース・イズメイ(: Joseph Bruce Ismay [?z?me?], 1862年12月12日 - 1937年10月17日)は、イギリスの実業家。客船タイタニックを所有していた海運企業ホワイト・スター・ラインの経営者として知られる。タイタニックの処女航海に乗船していたが、同船の沈没事故の際に乗客を差し置いて救命ボートで脱出したため、帰国後に非難を浴びた。
経歴
前半生

1862年12月12日、トマス・ヘンリー・イズメイ(英語版)とその妻マーガレット(旧姓ブルース)の息子としてランカシャー州(現在のマージーサイド州域)クロスビー(英語版)に生まれる[1]。父トマスは、1867年ホワイト・スター・ライン社を買収し、19世紀後半に造船王として名を馳せた実業家である[2]

エルストリー校(英語版)とハーロー校で学んだ後、フランスのディナール教養学校に一年在籍したが、大学の学位は取得できなかった[3]。1年間のグランドツアーの後、父が経営するホワイト・スター・ライン社に入社し[3]アメリカニューヨークの事務所で会社代理人として働いた[4]。このニューヨーク滞在中にアメリカ人のジュリア・フローレンス・シーフェリン(Julia Florence Schieffelin)と知り合い、1888年に彼女と結婚した[4]

1891年に妻子とともにイギリスへ帰国し、ホワイト・スター・ラインの親会社「イズメイ、イムリー・アンド・カンパニー(Ismay, Imrie and Company)」の共同経営者となる[4]
ホワイト・スター・ライン社長として1911年5月31日、タイタニックの進水式の日。造船会社ハーランド・アンド・ウルフ社の社長初代ピリー男爵ウィリアム・ピリー(英語版)(左)とイズメイ(右)。

1899年に父トマスが死去し、その跡を継いでホワイト・スター・ラインの社長となる。しかしこの前年の1898年にはアメリカのジョン・モルガンがインマン・ライン社(英語版)を買収。以降北大西洋航路事業への参入を図るモルガン財閥によって海運企業が次々と買収されていた。ホワイト・スター・ラインも対象とされており、父トマスはそれを防ごうと悪戦苦闘している中で亡くなった[5]

ブルースも当初はモルガンに対抗しようとしたが、ホワイト・スター・ラインの下請けの造船会社ハーランド・アンド・ウルフ社の会長ウィリアム・ピリー(英語版)(後の初代ピリー子爵)はモルガンとの価格競争になって造船予算が切り詰められることを嫌がり、モルガンの買収の申し出を受けるようブルースの説得にあたった。結局1902年にブルースはその案を呑み、ホワイト・スター・ラインはモルガンの国際海運商事(英語版)に買収される運びとなった[6]

一方ホワイト・スター・ラインのライバル企業キュナード・ライン社はモルガンのホワイト・スター・ライン買収を警戒した英国政府から様々な特権を引き出すことに成功し、イギリス企業にとどまることで今やアメリカのモルガン財閥の一部と化したホワイト・スター・ラインに対抗した[7]

キュナードは王立海軍の支援を受けて1906年に豪華客船ルシタニア号モーレタニア号を進水させた。これに対抗すべく、イズメイはオリンピック号タイタニック号ジャイガンティック号(この船名は後に「ブリタニック」に変更される)の3隻の豪華客船の建造計画を立ち上げた[8]

1910年初めの会議の席上、ハーランド・アンド・ウルフ取締役アレグザンダー・カーライルが2886人分48艘の救命ボートの設置を提案したが、イズメイは経費が掛かりすぎるとして却下し、イギリス商務庁の規定する16艘で十分とした。(実際に設置された救命ボートの数は20艘)この時のことをカーライルは「我々は2時間を費やして一等船室のカーペットについて議論し、救命ボートについては15分しか話さなかった」と回顧している[9]

オリンピックとタイタニックの建造はハーランド・アンド・ウルフ取締役トマス・アンドリューズの監督のもとに行われた。アンドリューズももっと多くの救命ボートを備えることを進言したが、イズメイは却下した[10]

1911年5月31日に行われたタイタニックの進水式にはイズメイやモルガンも出席した[11]1912年4月10日をタイタニックの処女航海日と定め、その船長にはホワイト・スター・ラインの古参船長エドワード・スミスを据えた。スミスは1912年2月にオリンピック号の船長を務めていた時、王立海軍の巡洋艦と衝突事故を発生させているが、イズメイはオリンピック号の責任とする海軍の主張を言いがかりと跳ね除けてスミスをタイタニックの船長に任命した[12]
タイタニック号乗船

イズメイは1912年4月10日出航のタイタニックの処女航海に乗船した。乗船の際、大西洋横断中に特定の場所でためしてほしい速度のリストをスミス船長に手渡している[12]。タイタニック乗船中はBデッキの一等船室B52/54/56に滞在した[4]

4月14日の午後早く、スミス船長と一等社交室で会談し「今日は昨日よりも良かったし、明日はさらに良くなるだろう。この分ならオリンピック号の記録を更新して火曜日(4月16日)の夜にはニューヨークに到着できる事は間違いなしだ。」と述べている。予定日より早い火曜日夜に到着すれば水曜日の朝刊に間に合い、話題になるだろうという思惑だった[13]

4月14日午後11時40分、タイタニックが氷山に衝突した時、イズメイは自室で寝ていたが、振動で目を覚ました。これまでの経験から船が何かにぶつかったと直感し、パジャマの上にコートを羽織り、スリッパのままという姿で大慌てでブリッジへ飛び込んだ。スミス船長から氷山にぶつかった旨の報告を受けると「船の被害はひどいのか」と尋ねたが、船長は「残念ながらそのようです」と答えている[14]

4月15日に入った深夜、右舷デッキに出ると乗客をボートに乗せる一等航海士マードックらの手伝いをした。しかしイズメイはその場からも浮いており、5号ボートを降ろす際には「もっと降ろせ、もっと降ろせ」と急かしていたが、五等航海士ハロルド・ロウに迷惑がられ、「もっと早く降ろせというのか。そんなことしたら、みんな溺れちまうんだぞ」と怒鳴りつけられて、すごすごと退散する場面があった[15]。またロウによれば、午前1時頃に遭難信号弾が打ち上げられた際にイズメイははるか上空を見つめ、信じられないという表情で口をあんぐりと空けていたという[16]


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