ジョズエ・カルドゥッチ
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この項目では、詩人について説明しています。駆逐艦については「ジョズエ・カルドゥッチ (駆逐艦)」をご覧ください。

ジョズエ・カルドゥッチ
Giosue Carducci
1900年頃撮影
誕生ジョズエ・アレッサンドロ・ジュゼッペ・カルドゥッチ(Giosue Alessandro Giuseppe Carducci)
1835年7月27日
トスカーナ大公国ルッカピエトラサンタ、ヴァルディカステッロ村
死没 (1907-02-17) 1907年2月17日(71歳没)
イタリア王国エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県ボローニャ
職業文学者詩人教師政治家
国籍イタリア人
最終学歴ピサ大学
ジャンル古典研究
代表作『青春の季』
『魔王賛歌』
『新韻集』
『擬古詩集』
主な受賞歴ノーベル文学賞
デビュー作『リム』
配偶者エルヴィラ・メニクッチ
アニー・ヴィヴァンティ
子供四子
親族ヴァルフレード・カルドゥッチ(弟、教師)
ウィキポータル 文学
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1906年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:彼の念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギー、スタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して

.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ジョズエ・カルドゥッチに関連するメディアがあります。

ジョズエ・アレッサンドロ・ジュゼッペ・カルドゥッチ(Giosue Alessandro Giuseppe Carducci, 1835年7月27日ヴァルディカステッロ - 1907年2月17日ボローニャ)は、イタリア詩人、教師。古典文学者。イタリア上院議員。その影響力は大きく[1]、現代イタリアの国民的詩人として公的にも認められていた[2]。父はリソルジメントの支持者で、政府の弾圧により幼少時代はトスカーナ地方を転々とする。学識を請われボローニャ大学教授となる。『新韻集』や『擬古詩集』が高い評価を受け、1906年にノーベル文学賞を受賞、同賞を受賞した最初のイタリア人となった。

国家統一を妨げているとしてローマ・カトリックを厳しく批判し、『青春の季』や『魔王賛歌』で反カトリックの姿勢を取っている。教育家としても教会の管理下にある事が一般的だった寄宿学校の現状を変えるべく、弟ヴァルフレード・カルドゥッチを校長とする無宗教式のカルドゥッチ寄宿学校を設置した。同校ではベニート・ムッソリーニサレジオ会の寄宿学校を追放された後に学んでいる。
経歴

カルドゥッチは、トスカーナ大公国の現ルッカ県北西端にある小さな街・ピエトラサンタの一部であるヴァルディカステッロの集落に生まれた。父親は医者で、統一イタリアの支持者であり、カルボナリの関係者であった。父親の政治的志向性のために、一家は、カルドゥッチが子供の頃に何度か引っ越さねばならない羽目に陥っている。その当時、数年をフィレンツェで過ごしたこともあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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