ジョシュア・チェンバレン
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アメリカ合衆国の政治家ジョシュア・ローレンス・チェンバレンJoshua Lawrence Chamberlain
ジョシュア・ローレンス・チェンバレン知事
生年月日1828年9月8日
出生地メイン州ブルーワー
没年月日1914年2月24日
死没地メイン州ポートランド
出身校ボウディン大学
所属政党共和党
称号名誉勲章
配偶者ファニー・チェンバレン
第31代メイン州知事
選挙区メイン州
在任期間1867年1月2日 - 1871年1月4日
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ジョシュア・ローレンス・チェンバレン(Joshua Lawrence Chamberlain、1828年9月8日-1914年2月24日)は、アメリカ合衆国メイン州出身の大学教授であり、南北戦争の時は志願して北軍に加わった。軍事戦略についてはそれ以前に教育を受けたことが無かったが、大いに尊敬され勲章を受けるような北軍士官となり、准将の位(さらに名誉少将)にまで昇進した。ゲティスバーグの戦いでの勇敢さによって名誉勲章を受章した。バージニア州アポマトックス・コートハウスではロバート・E・リー北バージニア軍に対して降伏の儀式を行う時に、北軍を取り仕切る栄誉に浴した。戦後、チェンバレンは共和党として政界に入り、メイン州知事を4期務めた。出身校であるボウディン大学では教授と学長を務めた。
初期の経歴

チェンバレンはメイン州ブルーワーで、ジュシュアとサラ・デュピーのチェンバレン夫妻の5人の子供のうち、長子として生まれた。大学入試に合格するために古代ギリシャ語を独学した後の1848年に、メイン州ブランズウィックボウディン大学に入学した。ボウディン時代、ボウディン大学教授の妻であるハリエット・ビーチャー・ストウなど、チェンバレンの人生に影響を与える多くの人々と出会った。チェンバレンは後にストウがその著名となる小説『アンクル・トムの小屋』の文章を読むのを聞きにしばしば通った。また連邦党寄りの学生集団であるピューシニアン協会に参加した。学術的名誉協会であるファイ・ベータ・カッパの会員となり、また学生友愛会のアルファ・デルタ・ファイの同士として1852年に大学を卒業した。

チェンバレンは1855年に地方の牧師の養女であるファニー・アダムズと結婚し、5人の子供が生まれたが、1人は未熟児で死産となり、2人は幼時に死亡した。チェンバレンの父は初めファニー・アダムズとの結婚を認めなかったが、後には認めてその息子と互いに尊重し合った。チェンバレンはメイン州バンゴーのバンゴー神学校でさらに3年間学び、その後ボウディン大学に戻って、修辞学の教授として教育者の経歴を始めた。最終的には科学や数学を除いてカリキュラムにあるどの教科でも教えるようになった。英語以外に9カ国語に堪能であった。すなわちギリシャ語ラテン語スペイン語ドイツ語フランス語イタリア語アラビア語ヘブライ語およびシリア語だった。

チェンバレンの曾祖父達はアメリカ独立戦争の時に軍人だった。そのうちの1人フランクリン・チェンバレンはヨークタウンの戦いで軍曹だった。祖父の名前もジョシュア・チェンバレンだったが、米英戦争のときに地方の民兵隊で大佐であり、イギリス軍によるバンガーとブルーワーの破壊に繋がった屈辱のハンプデンの戦いにおけるその役割で軍法会議に掛けられたが、無罪となった。チェンバレンの父も1839年の失敗に終わったアルーストック戦争に従軍した。チェンバレン自身は軍事学を学んだことは無かったが、国の為に仕えたいという強い望みがあった。

南北戦争が始まったとき、チェンバレンは入隊したいと願ったが、ボウディン大学の管理者はチェンバレンが大学教授として非常に価値があると考えていた。チェンバレンは休暇を認められた(建前上ヨーロッパで2年間語学を学ぶとされた)が、直ぐに入隊した。このとき第20メイン志願歩兵連隊の大佐就任を提案されたが辞退した。チェンバレンの伝記作者ジョン・J・ピューレンに拠れば、「初めはやや低く、まずは仕事を学ぶ」ことを好んだという。8月8日にその連隊の中佐に指名され、アデルバート・エイムズ大佐の指揮下に付いた。第20連隊はポトマック軍第5軍団の一部となった。

チェンバレンの連隊はアンティータムの戦いに向かったが、戦闘には参加しなかった。その後のフレデリックスバーグの戦いに参戦し、流血の多かったメアリーズ高地の襲撃で比較的少数の損害に留まったが、他の連隊の負傷者が多い中、凍えるような戦場で惨めな夜を過ごさなければならなかった。チェンバレンはこの夜のことを日記に記録しており、部隊に飛んでくる弾丸の音を聞きながら、死者の体を隠蔽材と枕に使っていたと、かなりの長さで論じている。1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦い時には、部隊に天然痘が拡がったために、後方で守備隊任務に回らされた[1]。チェンバレンは1863年6月に、エイムズの昇進に合わせて連隊の大佐に昇進した。チェンバレンの弟たちの1人、トマス・チェンバレンも第20メイン連隊の士官だったが、もう1人の弟ジョン・チェンバレンはアメリカ・キリスト教コミッションの一員としてゲティスバーグで連隊を訪れており、その後別のメイン志願兵連隊の連隊付き牧師に指名された。
ゲティスバーグの戦いリトルラウンドトップ西斜面、ティモシー・H・オサリバン撮影、1863年

チェンバレンはゲティスバーグの戦いでその名声を得た。リトルラウンドトップでのその果敢な防御が多くの出版物や話の焦点になった。チェンバレンは、ストロング・ビンセント大佐からリトルラウンドトップ南斜面の防御に派遣され、その第20メイン連隊が北軍前線の最左翼、その右手には第83ペンシルベニア歩兵連隊、第44ニューヨーク歩兵連隊および第16ミシガン歩兵連隊が並んだ。チェンバレンは直ぐに、ビンセント大佐がリトルラウンドトップの戦術的重要さに拘っていたことを理解し、第20メイン連隊は如何なる犠牲を払っても北軍左翼を守る必要があることが判った。メイン出身の部隊は南軍ウィリアム・C・オーツ大佐が指揮する第15アラバマ連隊北軍陣地の側面を衝こうとして丘を駆け上がってくるのを待った。南軍は何度も何度も攻撃し、メイン連隊はほとんど後退させられそうになった。チェンバレンはその退っ引きならない事態を認識し、その左翼部隊に(この時南東を向いていた。連隊の他の部隊は西を向いていた)銃剣突撃を命じた。その日のチェンバレンの報告書では、「その危機に際して、私は銃剣を命じた。その言葉で十分だった」と書いていた。

第20メイン連隊は丘を駆け下り、その左翼が常に回転運動を続けて突撃戦線をヒンジのように振らせ、正面攻撃と側面攻撃を同時に生じさせた。その結果、南軍兵を多く捕獲し、自軍の側面をうまく救った。チェンバレンは銃弾がその剣の鞘に当たって跳ね返り太腿に当たったときと、不発弾か破片が足に当たったときの2回、軽傷を負った。リトルラウンドトップでのその頑張りに対して、「ラウンドトップのライオン」という渾名で知られるようになった。1863年の後の時期に、チェンバレンはマラリアに罹り、快復するまで任務を外された。

1864年4月、チェンバレンはポトマック軍に戻り、ピーターズバーグ包囲戦直前に旅団長に昇格した。6月18日第二次ピーターズバーグの戦いにおける主要戦闘で、右腰と脚の付け根を貫通する銃弾を受けた。チェンバレンはその傷にも拘わらず、剣を引き抜いてそれを地面に立てて直立姿勢を保ち、退却の気分が高まるのを食い留めた。チェンバレンはそのまま数分間立ち続けたあとに倒れて、失血のために気を失った。その傷について師団軍医は致命傷と見なし、チェンバレンは死ぬものと予測した。チェンバレンの戦死がメイン州の新聞で伝えられ、北軍総司令官ユリシーズ・グラント中将はチェンバレンを准将に戦場昇進させた。グラントは様々な理由でそれほど迅速にチェンバレンを昇進させたが、その理由の一つはチェンバレンが死んだという誤報がグラントに届いたことだった。生きていると期待されていなかった(繰り返すがメイン州の新聞で報じられ、グラントには誤報が届いた)チェンバレンは驚くべき意志と勇気を示して、11月にはその部隊に戻った。妻のファニーを含め多くの者がチェンバレンに除隊を勧めたが、チェンバレンは終戦まで従軍することに決めていた。

1865年初期、チェンバレンは第5軍団第1師団の第1旅団指揮を任され、勇気と決断を持って指揮を続けた。3月29日、その旅団はグラントが戦争を終わらせるために最後の進行を行う中で、クエーカー道路の戦いにおける主要戦闘に参加した。チェンバレンは部隊に損失を受け、自身も負傷し(左腕と胸)、さらに捕まりそうになりながら、最後は成功し、エイブラハム・リンカーン大統領から少将への名誉昇進を受けた。

チェンバレンは戦争全体では、20の戦闘と多くの小競り合いに参戦し、4度その勇気をうたわれ、乗っていた馬6頭が銃で撃たれ、自身も6回負傷した。


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