ジョコ・ウィドド
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ジョコ・ウィドド
Joko Widodo

ジョコ・ウィドド(2019年10月)
インドネシア共和国
第7代 大統領
任期2014年10月20日
副大統領モハマッド・ユスフ・カラ
マアルフ・アミン(英語版)
ジャカルタ首都特別州
第15代 知事
任期2012年10月15日 – 2014年10月16日
スラカルタ市
市長
任期2005年7月28日 – 2012年10月1日

出生 (1961-06-21) 1961年6月21日(62歳)
インドネシア 中部ジャワ州スラカルタ
政党闘争民主党 (2024年まで)

無所属 (2024年から)
配偶者イリアナ(英語版)
宗教イスラム教スンニ派
署名

ジョコ・ウィドド(インドネシア語: Ir. H.[注釈 1] Joko Widodo、1961年6月21日 - )は、インドネシア政治家。第7代大統領(在任: 2014年10月20日)。スラカルタ市長、ジャカルタ首都特別州知事を歴任した。闘争民主党(PDI-P)に所属していたが闘争民主党から除名された。通称ジョコウィ[1]
生い立ち

1961年6月21日、ジャワ島スラカルタ大工の家に生まれた。誕生時の名前は「ムルヨノ」と名付けられた[2]。幼少期は貧困家庭だったため、貧困家庭の子供を受け入れ対象としていたティルトヨソ・ソロ第112小学校に入学し[3]、12歳の頃から父の家具工房を手伝うようになった[4][5]。3度に渡り立ち退き処分を受けたが、この経験から官僚的な行政への不信が幼心に刻まれ[1]、後年のスラカルタ市長就任時の政策に影響を与えたと言われている[6]

第112小学校卒業後はソロ第1中学校に入学[7]。ソロ第1高校への進学を希望していたが、受験に失敗したためソロ第6高校に進学し[8]、卒業後はガジャ・マダ大学林業学部に進学し、木材加工について研究した[9]

1985年に大学を卒業し、アチェ州の木工業会社に就職するが、社風に馴染めず帰郷し、叔父の経営する木材会社で勤務した。1988年に第一子が誕生し、同時期に家具製造輸出会社を設立した。当初の経営は順調だったが、詐欺被害に遭って一旦倒産し、1990年に母から3,000万ルピアを借りて会社の再建を行った[10]。主にヨーロッパの企業を相手にして実績を伸ばし、また仕事を通じて目にしたヨーロッパの都市計画の効率性は、後年の政治家としての政策に反映された[5]
スラカルタ市長

2005年スラカルタ(通称ソロ)市長選挙に闘争民主党の候補として出馬して36.62%の得票を獲得し、市長に当選した[11]。当初、政界転身に家族は猛反対したが、実現させたい政策を訴えて、賛成はしないが支持はするというところまで説得した[1]

市長就任後、ジョコはスラカルタの都市開発にヨーロッパ式の都市計画を採用し[12]、市場・歩道・公園の整備、医療保険改革、国際会議やイベントの招致、観光都市としてのジャワ文化の振興などの政策を推進した[13]。文化振興の面では、2007年にワールドミュージックフェスティバルを開催し、2008年10月には世界遺産都市機構のメンバーに加入した。また、市内の街路樹の伐採規制を強化して緑化に努め、頻繁に市内を巡り市民と直接意見交換し、都市計画の入札から親族の企業を排除するなどの庶民的・公正な姿勢が支持され[13]2010年の市長選挙では90.09%の得票を獲得し再選した[14]
ジャカルタ州知事

2012年にジャカルタ首都特別州知事に就任。2012年11月、低所得者向けの無料医療サービス制度・ジャカルタ保健カード制度を導入。低所得層が医療サービスを受けられるようになった一方、医療機関の負担が増加し、州財政への負担も大きいと批判を受けた[15]

2013年、老朽化した公営市場を改修し、露店を強制撤去して公営市場へと移転させる再開発を進めた[16]。また、スラムの拡大を防ぐためのカンプンクム(スラム)再生計画を実施。州政府と民間企業が費用を負担し住宅を建設し、スラム住民に引き渡した[17]

2014年2月12日、局長8人を含む州政府幹部26人の更迭を行い、人事を刷新。汚職疑惑の浮上していた幹部や人事評価に基づく能力の低い幹部を、閑職の知事開発促進チームに配属した[18]
インドネシア大統領
大統領選挙

2014年7月9日に投票が行われたインドネシア大統領選挙に出馬。選挙戦では政治変革や汚職撲滅を公約に掲げ、スハルト元大統領の娘婿のプラボウォ・スビアント陸軍戦略予備軍司令官との一騎討ちを制して、同7月22日に選挙管理委員会より当選が発表された[19][20]

地方の零細企業家から地方首長というルートを経たジョコ大統領は、エリートでも軍人でもないインドネシアで初めての大統領である[21]
野党との関係

就任当初、国民議会(下院)はプラボウォ率いる野党勢力・メラプティ連合が過半数を占めていたため、政権運営は難航すると見られていた[22]。しかし、議会ポストを巡り対立しメラプティ連合を離脱した開発統一党がジョコ派に回り、議会勢力が均衡状態となったため政権運営に支障は出ないとされる[23]

また、2015年2月には執務の拠点を西ジャワ州ボゴールに移転した。移転の理由として、政治的に対立しているメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリら闘争民主党と距離を置き、ボゴール近郊に居住するプラボウォやユドヨノらの野党幹部との対話を円滑に進めることが目的と見られている[24]

2019年にはプラボウォを国防相に抜擢して物議を醸した[25]
内閣改造


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