ジョイ・ディヴィジョン
Joy Division
出身地 イングランド マンチェスター
ジャンルポストパンク
ゴシック・ロック
活動期間1976年 - 1980年
レーベルファクトリー・レコード
共同作業者ニュー・オーダー
旧メンバーイアン・カーティス
ピーター・フック
スティーヴン・モリス
バーナード・アルブレヒト
ジョイ・ディヴィジョン (Joy Division) は、イギリスのロックバンド。
1976年にグレーター・マンチェスターのサルフォードで結成され、ポストパンクを代表するバンドの一つとして活躍。ボーカリストのイアン・カーティスの書く内省的な歌詞や特徴的なライブパフォーマンスは多くの人を惹きつけた。ところが、初のアメリカ・ツアーへの出発前日の1980年5月18日にカーティスが自殺。突然の悲劇によりバンドは解散を余儀なくされた。その後、残されたメンバーはニュー・オーダーを結成することになる。
活動期間も短かったがレディオヘッドなど1980年代末以降のオルタナティヴ・ロックに多大な影響を及ぼした[1]。また、代表曲の一つである「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」は80年代の名曲として名高い[2][3]。 1976年6月4日の金曜日、かねてからの友人同士であったバーナード・アルブレヒトとピーター・フックは、マンチェスターのフリー・トレード・ホールで行われたセックス・ピストルズのライブ[4][5]を観に行った。ピストルズのパフォーマンスに衝撃を受けた二人は、すぐに自分たちもバンドを結成することを決意。アルブレヒトがギター、フックがベースを担当することになり、ボーカリストには以前にライヴ会場で顔を合わせたことがあったイアン・カーティスが加入。その後ドラマーを見つけるのに苦労したが、1977年8月にスティーヴン・モリスがバンドに加わったことでメンバーが固まった。 当初、バンド名はバズコックスのマネージャーの命名によりスティフ・キトゥンズ(Stiff Kittens)としていたが、すぐにデヴィッド・ボウイのアルバム『ロウ』収録曲からとった「ワルシャワ (Warsaw)」という名称に変更。その後、類似する名前のバンドが存在することが判明したため、バーナード・サムナーの発案およびバンド内での協議により1978年1月から「ジョイ・ディヴィジョン」と名乗るようになった。この名前はナチス・ドイツの強制収容所内に設けられた慰安所に由来するもので、イェヒエル・デ・ヌールの小説『ダニエラの日記 1978年9月、ジョイ・ディヴィジョンはファクトリー・レコードのオーナーであり、地元の音楽シーンの顔役であったトニー・ウィルソンが司会を務めるテレビ番組に出演。ほどなくしてファクトリーとレコード契約を締結する。バンドは次第に知名度を高め、1979年1月にはイアン・カーティスが音楽誌NMEの表紙を飾る。 1979年4月からは1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』のレコーディングに入る。当時の彼らの演奏は荒削りでパンク・ロックの影響を引きずっていたが、プロデューサーのマーティン・ハネット
メンバー
イアン・カーティス (Ian Curtis) - ボーカル
バーナード・アルブレヒト (Bernard Albrecht) - ギター、キーボード
ピーター・フック (Peter Hook) - ベース
スティーヴン・モリス (Stephen Morris) - ドラム
来歴
結成
アンノウン・プレジャーズ
アルバム発売後の10月からはバズコックスをサポートする全英ツアーに出ることになり、音楽で生計を立てることが可能になったメンバーはそれまで続けていた仕事を辞めてバンド活動に専念することになった。 バンドは1980年1月にヨーロッパを回るツアーを行った後、2月からは全英ツアーを展開。さらに3月からは次作『クローサー』のレコーディングのため、再びハネットとスタジオ入りする。バンドが順調に成功への階段を上る一方で、過密したスケジュールは次第にイアン・カーティスの心身を蝕んでいった。持病のてんかんとうつ病、さらに女性関係の問題も抱え精神的に不安定な状態になったイアンは、ツアーの最中の4月7日にフェノバルビタールを服用して自殺を図る。この時は一命を取り留めたものの、一部のライヴをキャンセルした後にツアーが続行されたため、イアンの健康状態は悪化した。 1980年5月18日、全米ツアーへの出発を翌日に控えた月曜日の早朝にイアンは自宅で首を吊り自殺。彼の遺体は同日の昼に帰宅した妻デボラにより発見された。突然の悲劇によりヴォーカリストを失ったジョイ・ディヴィジョンは活動を停止し、全米ツアーもキャンセルされた。 遺作となったシングル「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」は5月に全英シングルチャート13位を記録。7月には二枚目の(同時に最後の)アルバム『クローサー』がリリースされ、全英アルバムチャート6位まで上昇。年末にはNME誌の特集で年間最優秀アルバムに選出された。 残されたメンバーは話し合いの末、音楽活動を継続することを決定。イアンの生前に結ばれた「メンバーが一人でも欠けたらジョイ・ディヴィジョンの名前でバンド活動は行わない」という約束に基づき、バンド名はニュー・オーダーに改められ、ボーカルはギタリストのバーナードが兼任することになった。1980年9月には延期されていた全米ツアーを敢行している。 後年、ニュー・オーダーはイアン・カーティスの自殺が伝えられた時の心境を曲にした「ブルー・マンデー」を発表。同シングルは世界的なヒットを記録した。 ジョイ・ディヴィジョンが少年期に大きく影響を受けたのは、ドアーズ[6]、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド[6]、イギー・ポップ[6]、デヴィッド・ボウイ[6]や、ノイ!やクラフトワーク[7]、カン[8]、ストラングラーズ[9] やスージー・アンド・ザ・バンシーズ[10]。
イアンの死とクローサー
ニュー・オーダー詳細は「ニュー・オーダー」を参照
彼らの音楽的な影響