ジョイス_(歌手)
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ジョイス
Joyce
ジョイス(2010年)
基本情報
出生名Joyce Silveira Palhano de Jesus
生誕 (1948-01-31) 1948年1月31日(76歳)
出身地 ブラジル リオデジャネイロ州
ジャンルポップスサンバ
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカルギター
レーベルフィリップス・レコードオデオン・レコードオーマガトキ
共同作業者アナ・マルチンス、クララ・モレーノ 他

ジョイス(Joyce、ジョイス・モレーノとも[1]ポルトガル語: Joyce Silveira Moreno、1948年1月31日 - )は、ブラジルの女性シンガーソングライター
経歴
デビュー - 活動停止

1948年リオデジャネイロ州で生まれる。1964年、15歳の時に「コンジュント・サンバカーナ」という音楽グループに参加[2]し、歌手としての初レコーディングを行った。

1967年、ソング・フィスティバルに自作の曲「ミ・ヂゼーラン (ポルトガル語: Me Disseram)」を携えて出場。しかし、曲の歌詞が当時のブラジル社会には受け入れられなかった(ちなみに、この年の同じフェスティバルに出場し喝采を浴びたのがミルトン・ナシメント[3])。

1968年(20歳)、ファースト・アルバムを発表[4]。この頃のジョイスは、大学でジャーナリズムを専攻[5]する傍ら、リオにある新聞社ジョルナル・ド・ブラジル[6]において新聞記者もしていた。

1960年代には、ボサノヴァの流れを汲んだ楽曲を発表しており、世間では「スカートをはいたシコ・ブアルキ[6]」と評されることがあった。

1969年、アルバム「Encontro Marcado」を発表。ミナスジェライス州ベロオリゾンテで開かれたソング・フェスティバルに、トニーニョ・オルタと共作した楽曲「ヤラ・ベーラ」でエントリー、5位入賞。

大学卒業後の1970年には、タンバ・トリオのメンバーであったルイス・エサ率いるグループ「サグラダ・ファミリア」に参加、メキシコに2ヶ月滞在。ジョアン・ジルベルトと初めて会ったのもこのメキシコ滞在中だった[3]

同年、ネルソン・アンジェロ、トニーニョ・オルタ、ノヴェリ、ナナ・ヴァスコンセロス、エルシオ・ミリートらとともに音楽ユニット「ア・トリーボ (ポルトガル語: A Tribo)」を結成。ブラジル・オデオン社と契約。「Joyce」名義で数枚のシングル盤を発表した。

1972年、ア・トリーボにギタリストとして参加していたネルソン・アンジェロと結婚する[5]。ネルソンとの結婚で、アナ・マルチンス、クララ・モレーノという2人の子供が生まれ、出産と子育てのために一時活動を休止。ジョイス本人いわく、「家でサムライに仕えるゲイシャのような生活」を送っていた[7]という。
活動再開以降

1975年、詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスに誘われ、1976年まで南米?ヨーロッパツアーに参加。この経験が、音楽活動を再開するきっかけとなった。

1976年、ツアーの途中で立ち寄ったイタリアで、アルバム「パッサリーニョ・ウルバーノ」製作。この頃から、活動は再びトップ・ギアに入る。同じ頃、離婚を経験する[5]

1977年、クラウス・オガーマンのプロデュース[7]のもと、マイケル・ブレッカー[4]ニューヨークでレコーディングを行う(音源は未発表)。このころ、ニューヨークに長期滞在していたバイーア州出身のドラマートゥッチ・モレーノと出会う(のちに結婚)。1979年、ジョイスが作曲した「或る女(Essa Mulher)」がエリス・レジーナに取り上げられ、コンポーザーとしても注目を浴びる。同年、トゥッチ・モレーノとの間に子供が生まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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