ジョアン・ロドリゲス
[Wikipedia|▼Menu]

ジョアン・ツズ・ロドリゲス (またはロドリーゲス、ポルトガル語:Joao “Tcuzu” Rodrigues、中国語:陸若漢、1561年1562年)? ? 1633年8月1日)は、ポルトガル人イエズス会士でカトリック教会司祭。同名の司祭(ジョアン・ジラン・ロドリゲス Joao “Girao” Rodrigues)と区別してツズ(通事の意)と呼ばれた。

ポルトガル北部のセルナンセーリェ (Sernancelhe) に生まれ、少年のうちに日本に来て1580年イエズス会に入会、長じて日本語に長け、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたるほどの地位に上り詰めたが、後に陰謀に遭って1610年、マカオに追放された。マカオではおなじく追放されてきた日本人信者の司牧にあたったほか、マカオ市政にも携わり、の朝廷にも派遣された。日本帰還を絶えず願うも叶わず、マカオに歿した。日本語や日本文化への才覚を以て文法教科書『日本大文典』、『日本語小文典』を著したほか、『日本教会史』の著者としても知られる。
生涯
誕生から司祭叙階まで

ロドリゲスは、1561年(あるいは1562年)に、ポルトガルのベイラ地方ヴィゼウ県のセルナンセーリェに生まれる[1]。家族や日本に来るまでのことについて確かなことは何一つ知られるところにないが、セルナンセーリェは山深い「田舎」であり、彼自身述べているようにポルトガルでは教育を受けていなかったと考えられている[2]。ロドリゲスはポルトガルを1574年ごろ離れてインドに向かい、マカオを経て 1577年日本に到着した[3]

ロドリゲスが日本に到着してから1580年にイエズス会に入会するまでのことはくわしく知られないが、この間、に行ったこと、耳川の戦い天正6年(1578年))に居合わせたことはのちに自身で書きのこしている[4]

その後1580(天正8)年、ロドリゲスはイエズス会に入会し、新設の修練院(ノビシャド)に入った。それは、同年、同会巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが指示して臼杵に修練院、府内コレジオなどの教育施設を建設させたものであった。初期の教育施設は書籍などの教材に事欠き、ヴァリニャーノ自身修練院で講義をなすなど教師の優秀さに頼ったものであった[5]

ロドリゲスは1581年に府内のコレジオに移り、人文学の課程で主にラテン語を学び、すぐれた教養で知られた養方軒パウロにより日本語の指導も受けていた。また、ペドロ・ゴメスによってヨーロッパの自然科学の講義もなされていた。83年より哲学の課程が始まり、人材不足などの影響により、18か月で課程を終え、85年からスペイン人神学者ペドロ・デ・ラ・クルス (Pedro de la Cruz) に就いて神学の課程に入る。しかし、これも島津氏大友氏侵攻によってコレジオと修練院は山口に退避し、翌年に豊臣秀吉施薬院全宗の働きかけによりバテレン追放令を発するに至り中断させられる[6]

1587年にふたたび神学を学びはじめたが、人文学の課程の講師になったため、ふたたび中断する。88年には安土(現・近江八幡市安土町)から有馬領の八良尾に移転された神学校で日本人学生にラテン語を教えることとなった。90年に神学を再開したが、91年は通訳としてヴァリニャーノに従っていたため、長崎に戻ってからの92年から95年にかけて諸聖人修院 (Casa de todos os Sanctos) で修了したと見られる[7]

ロドリゲスは、1595年10月、同時に司祭叙階を受けることになった叙階志願者とともにマカオに旅立った。日本にはまだ司教が到着していなかったからである[注 1]。1593年日本司教に任命されたドン・ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) は、1594年にマカオに到着していたが、スマトラ島に逮捕されているマカオ司教のレオナルド・デ・サ (Leonardo de Sa) に代り司教職を執り行っていた。そのマルティンスにより、1596年、5名の叙階志願者らとともに叙階され、日本司教一行は、8月に長崎に上陸した[8]
通訳から財務担当になるまで

ヴァリニャーノは、ローマ派遣から戻ってきた天正遣欧少年使節ゴアで合流し、1588年6月、マカオに到着するが、87年のバテレン追放令を知り渡日を延期。追放令は厳格に適用されていないことも伝わっていたが、イエズス会の高位の宣教師のままでの渡日は避けポルトガル・インド副王使節として秀吉に面会し、事態の打開を図ろうとした。日本側での受け入れ可否を確かめたうえで、1590年7月日本に渡り、訪問の際の通訳としてロドリゲスを選んだ。それまでヴァリニャーノの通訳はルイス・フロイスだったが、年老い、病を得たため新任されたのであった[9]

ヴァリニャーノは正式な大使ではなく、ふたたび宣教をしに来たのではないかと疑われていたが、1591年3月(天正19年閏正月)、豪華な贈り物も功を奏したのか、一行は聚楽第で秀吉から例にない歓待を受けた。通訳に当ったロドリゲスは秀吉の信をとりわけ受け、別の日にひとりで呼ばれてしたしく語らう機会を得た。秀吉はインド副王への返礼品について話しあい、その後の歓談は夜にまでおよんだ。ヴァリニャーノが九州に戻ったあとも、返書の協議のためとしてロドリゲスは京に留めさせられた[10]

秀吉は、所用で京を離れて戻ってくると、再びイエズス会への態度を悪化させた。さらに、ヴァリニャーノは一度も離日していないという噂を耳にすると、宣教師追放徹底を考えはじめ、インド副王への返書にもその旨を書かせる。しかし、同年8月にポルトガル船の荷物を取り押さえようとして失敗する事件があると、イエズス会の不在がポルトガル貿易に影響が出ることを知り、京都所司代前田玄以の仲介でロドリゲスが取りなしたのを受けて疑いを解いた。返書の内容を穏当なものに修正する求めもつつがなくなされ、ロドリゲスは半年の在京を終えて長崎に戻った。この訪問は成功と言えたが追放令は破棄されず、イエズス会の存在はいまだからくも黙認されたに過ぎなかった。この後、ロドリゲスは離日まで大小の権力者との交渉に当ってゆくことになる[11]

1592(天正20)年、秀吉が朝鮮侵攻の指揮のため名護屋に到着すると、宣教師追放令が厳格になされていないことが知られるのを恐れたイエズス会では、ロドリゲスとポルトガル船長を名護屋に訪問させた。秀吉はそれを喜び、一月のあいだ名護屋に留めさせた。ロドリゲスは病を得て長崎に帰るが、秀吉がそれを知ると、名護屋で治療できただろうと憤慨し、施薬院全宗がロドリゲスは西洋人なので、かの地の療法でなければ効果がないのだと取りなしたという[12]

1593(文禄2)年、ポルトガル船が長崎に着くと、船長らを引き連れて名護屋を訪問し、歓待の席で黒人のダンスや西洋楽器演奏などが披露され、たいへん興がられたという。このとき、徳川家康や前田玄以らと面会し、キリスト教の教義や、仏教の天体論と異なるキリスト教の天体論を説き、宗論を争わせた。家康は禅僧のいる前でロドリゲスの話を聞き、それらが論理的であると評し、追放令が解除されるまで、自身の領地で秘密裏に生活することを認めたという[13]。また、大型船に鉄甲を被らせた舟を何隻も目撃したという。

1594年と95年にも秀吉を訪れる。とくに95年には、絹の小袖を贈答に用いよと贈られ、加えて、中国から絹を輸入するよう依頼され、必要な代金として2000石を与えられた。これはロドリゲスの生糸貿易としてもっとも早い記録である[14]

ロドリゲスは、1595年にマカオに出帆し、96年、司祭に叙階されて日本に戻る。同時に渡日した日本司教マルティンスは到着以来司教職の職務に追われていたけれども、インド副王大使の資格によって途日したため、同年11月(文禄5年9月)、完成したばかりの伏見城において、秀吉に先年の国書の返礼を奉じた[15]

ロドリゲス帰国直前の1596年10月(文禄5年8月)、サン=フェリペ (Sao Felipe) 号事件が起っていた。この事件が進展してゆくうちに、秀吉は宣教師たちがスペインの日本征服の露払いであることを確信し、宣教師らの逮捕を命じた。そこで、近畿にいたフランシスコ会士とフランシスコ会・イエズス会の日本人同宿、一般信徒のあわせて24名(のち2名増加)が逮捕され[注 2]、市中引きまわしののち、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎において処刑された(二十六聖人殉教事件[16]

1598年9月18日(慶長3年8月18日)、秀吉が死去する。二十六聖人殉教事件に伴い、1597年、再度の追放令に接し[注 3]日本を退去し、ゴアへ向かう途中死亡したマルティンスに代り、日本司教となったルイス・デ・セルケイラ (Luis de Cerqueira)[注 4]が、3度目の日本訪問となるヴァリニャーノとともに、8月5日に長崎に到着する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef