ジョアン・ジルベルト
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はプラド・ペレイラ、第二姓(父方の姓)はヂ・オリヴェイラです。

ジョアン・ジルベルト
ジョアン・ジルベルト(2006年)
基本情報
出生名Joao Gilberto Prado Pereira de Oliveira
生誕 (1931-06-10) 1931年6月10日
出身地 ブラジル バイーア州ジュアゼイロ
死没 (2019-07-06) 2019年7月6日(88歳没)
ジャンルボサノヴァ
職業歌手ギタリスト作曲家
担当楽器ボーカルギター
活動期間1950年 -
共同作業者アントニオ・カルロス・ジョビンスタン・ゲッツアストラッド・ジルベルトカエターノ・ヴェローゾジルベルト・ジルマリア・ベターニア
ジョアン・ジルベルト(1996年)

ジョアン・ジルベルト(Joao Gilberto、本名ジョアン・ジウベルト・プラド・ペレイラ・ヂ・オリヴェイラ、1931年6月10日 - 2019年7月6日)は、ブラジル歌手ギタリスト作曲家アントニオ・カルロス・ジョビン作詞家ヴィニシウス・ヂ・モライスらとともに、ボサノヴァを創成したとされている。

アストラッド・ジルベルトは元。アストラッドとの離婚後、歌手のミウシャと結婚。ベベウ・ジルベルトはミウシャとの間のである。
経歴

ブラジル北東部バイーア州ジュアゼイロに生まれ、10歳になるまで、この町で育った。1946年ギターを父から貰い、バンド活動に夢中になる。その後、中等寄宿制学校に通うが、音楽の勉強のために退学する。1949年にはラジオ番組にキャストとして出演した。

19歳の時にはリオ・デ・ジャネイロでボーカル・グループ「ガロットス・ダ・ルア (Garotos da Lua)」にリード・ボーカルとして参加し、2枚のSPをトダメリカ・レーベルで録音する。しかし、それも長くは続かず、ガロットス・ダ・ルアを脱退する。

1952年にはコパカバーナ・レーベルより初のソロ・レコード『Quando ela sai』を録音するが、ヒットせず、寝る場所と食事を求めて友人の家を転々とする日々が続く。マリファナ中毒となったジョアンを友人が見かねて、1955年にはジョアンの姉の住む街、ジアマンチーナへ移動し、姉の家に居候する生活が始まる。バスルームに一日中閉じこもり、ヴィオラン(クラシック・ギター)を弾きながら歌を歌い続け、その中で、サンバのリズムをギターだけで表現する、バチーダと呼ばれる独特の奏法を発明する。

その後、1957年に再びリオ・デ・ジャネイロへ戻る。アントニオ・カルロス・ジョビン[1]と出会い、ジョビンはジョアンの声とギターに惚れ込む。1958年にはエリゼッチ・カルドーゾのアルバム『カンサォン・ド・アモール・ヂマイス (Cancao do amor demais)』の中の2曲にギタリストとして参加する。その年の7月10日にはジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスによるシングル「想いあふれて (Chega de Saudade)」を録音する。これが最初のボサノヴァ・ソングと呼ばれるもので、発売当初はなかなか話題にならなかったが、次第にリオの若者たちの間で人気となり、ボサノヴァ・ムーブメントが形成されていった。1959年には初めてのLP『想いあふれて (Chega de Saudade)』が発売される。

1959年アストラッド・ジルベルトと結婚。1963年ジャズサックス奏者、スタン・ゲッツと共に『ゲッツ/ジルベルト』を録音。1964年には、アストラッドが英語で歌った「イパネマの娘」が、シングルとして発売され、ボサノヴァの有名曲となった[2]。ジョアンのギターを練習する時間は妻も驚くほど長時間にわたったという。しかし、アストラッドとはほどなく離婚してしまうこととなった。

1965年には『ゲッツ/ジルベルト』でグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞し、最優秀男性ボーカル賞にもノミネートされた[3]。同年にミウーシャ(シコ・ブアルキの実姉)と結婚する。しかし、ボサノヴァ・ブームの退潮や軍事政権の台頭の影響からか、1969年にはメキシコシティに移り、そこで2年間住む。

1973年、アルバム『三月の水』を発表。1977年には、トミー・リピューマのプロデュースによりアルバム『AMOROSO (イマージュの部屋)』を制作している(アルバムジャケット裏面のポートレートは日本人カメラマン土井弘介による[4][5])。1981年には、カエターノ・ヴェローゾジルベルト・ジルマリア・ベターニアとの共作『海の奇蹟 (Brasil)』を発表。

高齢にもかかわらず活動をつづけ、2000年、全編ギター弾き語りによる初のアルバム『ジョアン 声とギター(Joao voz e violao)』を、カエターノ・ヴェローゾのプロデュースで発表し、同作はグラミー賞最優秀ワールドミュージック・アルバム賞を受賞した[3]。また2003年には70代での初の日本公演で話題になり、9月12日公演が『ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー』としてアルバム化(翌年に発売)。翌2004年2006年11月にも日本公演が行われた。

2019年7月6日、ジョアン・ジルベルトはリオ・デ・ジャネイロの自宅で死去した[6]
代表曲

「想いあふれて」 - "Chega De Saudade"

「フェリシダーヂ」 - "A Felicidade"

イパネマの娘」 - "The Girl From Ipanema"

デサフィナード」 - "Desafinado"

「静かな夜」 - "Corcovado"

「イザウラ」 - "Izaura"

「バイーア生まれ」 - "Eu Vim Da Bahia"

「ビン・ボン」 - "Bim Bom"

「偽りのバイーア娘」 - "Falsa Baiana"

「ボンファに捧ぐ」 - "Um Abraco no Bonfa"

ディスコグラフィ
リーダー・アルバム

『想いあふれて』 - Chega de Saudade (1959年)

『愛と微笑みと花』 - O Amor, o Sorriso e a Flor (1960年)

『ジョアン・ジルベルト (ボサ・ノヴァ!)』 - Joao Gilberto (1961年)

ゲッツ/ジルベルト』 - Getz/Gilberto (1964年) ※with スタン・ゲッツ

『ハービー・マン&ジョアン・ジルベルト・ウィズ・アントニオ・カルロス・ジョビン』 - Herbie Mann & Joao Gilberto with Antonio Carlos Jobim (1965年)

『ゲッツ/ジルベルト#2』 - Getz/Gilberto Vol. 2 (1966年) ※with スタン・ゲッツ

『彼女はカリオカ』 - Joao Gilberto en Mexico (1970年)

三月の水』 - Joao Gilberto (1973年)


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