ジュール・ラニョー
Jules Lagneauジュール・ラニョー
生誕1851年8月8日
死没1894年4月22日(満42歳没)
時代十九世紀後半
地域フランス
学派フランス反省哲学
研究分野哲学、形而上学
影響を受けた人物
プラトン、デカルト、カント、スピノザ
影響を与えた人物
アラン、シモーヌ・ヴェイユ、ジャン・ナベール、ポール・リクール
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ジュール・ラニョー(Jules Lagneau, 1851年8月8日 - 1894年4月22日)は、フランスの教育者、哲学者。ジュール・ラニョーは生涯をリセの一教師として過ごし一冊の著作もあらわさなかった。その哲学が世に知られたのはラニョーの死から30年後、教え子たちが、ラニョーの授業を書きとめたノートを印刷・出版したことによる。[補 1]
「ジュール・ラニョーは私が出会ったただ一人の"偉人"だった」とラニョーの生徒だったアランは書き、自らをラニョーの「忠実な弟子」と公言している[1]。アンリ4世校でベルクソンの教えを受けた批評家アルベール・チボーデはラニョーを「若者たちの師、ソクラテスの後継者としてはベルクソンの上に位置する人」と評した。[2][3][補 2] フランス哲学史の専門家はラニョーの哲学をフランス反省哲学と呼ばれる思潮の出発点に位置づけている[4]。
生涯ラニョーを支援した弁護士・ヴォワレイ
ジュール・ラニョーは1851年にフランス・ロレーヌ地方の首府メスで、蝋燭屋の次男として生まれる。[補 3] 母親はロレーヌのドイツ語圏育ちであった。ラニョーは幼いとき天然痘にかかりその影響で生涯病弱となった。1866年、ラニョーの才能を見込んだ地元の弁護士シャルル・フランソワ・ヴォワレイ(Charles Francois Woirhaye
)が蝋燭職人の父親を説得し、地元メスのリセ(国立高等中学校)にラニョーを入学させた[5]。ラニョーはヴォワレイの期待に応え優秀な成績で卒業した。69年、高等師範学校の受験準備のためラニョーはパリに上京した。メス(Mets)攻囲戦(1870)翌1870年に普仏戦争が始まると、フランス北東部でプロシアと境界を接しているラニョーの生地メスは戦争の最前線となった。ラニョーはただちに故郷に戻り、弟と共に義勇軍に参加した。戦地となった故郷メスはプロシア軍に占領され(メス攻囲戦)フランス兵は全員捕虜となったがラニョーはそこから脱出し、リールで再び戦線に参加した。敵方にはニーチェも看護兵として参戦していたがチフスと赤痢に感染し[6]、ラニョーも同様にチフスに罹患しているので[7]、もしかすると同じ戦場で敵味方としてラニョーとニーチェが対峙していた可能性もある。この普仏戦争の間にフランスは第二帝政から第三共和政に政治体制が変わった(フランス第三共和政)。1871年、フランスの敗北で終戦すると、敗戦の混乱のさなかに父親が没する。この戦争の影響でラニョーはドイツ嫌いとなり、後年、あるドイツ人教師が彼の授業を聴きたいと望んだとき、その希望を受けなかったという[8]。19歳のラニョーはドイツ帝国によって分割された生地ロアンヌを離れた。[9] 若き日のラニョー
パリに着いたラニョーはリセ・シャルルマーニュ(フランス語版)で受験準備を再開し、翌年バカロレア(大学を含む高等教育機関入学国家試験)に合格した[10]。 1872年、エコール・ノルマル(高等師範学校)に入学し、19世紀後半フランスを代表する哲学者ジュール・ラシュリエの教えを受けた[補 4]。74年、最初のアグレガシオン(哲学教授資格試験)には失敗したが翌年合格し、生涯を捧げる教職に就いた。最初の75-78年はブルゴーニュ地方サンスのリセ、78-80年に北フランス・ピカルディ地方サン・カンタンのリセ、80-84年は故郷ロレーヌ地方ナンシーのリセで哲学を教えた。85年、哲学級が新設されたパリのリセ、ヴァンヴ(現在はリセ・ミシュレ)に着任。同校でエミール=オーギュスト・シャルティエ(後のアラン)がラニョーの生徒になったのは1886年である。1887年にラニョーは最愛の母を失った。[11][補 5][補 6]