ジュール・マザラン
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探検家の「フェルディナンド・マゼラン」とは別人です。
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ジュール・レイモン・マザラン
Jules Raymond Mazarin
マザラン枢機卿
ピエール・ミニャール
首都大司教管区除外対象
司教区メス
主教区メス
着座1652年
離任1658年
前任ベルヌイユ公アンリ
後任フランツ・エゴン・フォン・フュルステンベルク
他の役職ルテル公爵
マイエンヌ公爵
ヌヴェール公爵
クリュニー修道院院長(1654年-1661年
フランス宰相1642年- 1661年
聖職
司教叙階1652年
枢機卿任命1641年12月16日
個人情報
本名Jules Raymond Mazarin
ジュール・レイモン・マザラン
別名Giulio Mazarino
ジュリオ・マッツァリーノ
出生1602年7月14日
ナポリ王国ピッシーナ
死去 (1661-03-09) 1661年3月9日(58歳没)
フランス王国ヴァンセンヌ
墓所 フランス王国パリ
教派・教会名キリスト教カトリック教会
両親父:ピエトロ・マザリーニ
母:オルタンシア・ブッファリーニ
職業聖職者枢機卿
専門職政治家貴族
出身校グレゴリアン大学
紋章
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ジュール・マザラン(フランス語: Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日)は、17世紀フランス王国政治家枢機卿イタリア人でイタリア名はジュリオ・マッツァリーノ(イタリア語: Giulio Mazarino)またはジュリオ・マザリーニ(イタリア語: Giulio Mazarini)。ラテン語形はユリウス・ライムンドゥス・マザリヌス(ラテン語: Iulius Raimundus Mazarinus)なので、ジュール・レーモン・マザランとも。
生涯

イタリア中部ピッシーナに生まれる。庶子であったともいう。父ピエトロがシチリアのマッツァリーノ城塞で生まれたため、その名を名乗り始める。外交の能力を認められてローマ教皇に仕える。

1630年、マントヴァ継承戦争(イタリア語版、英語版)において、一時停戦の約を破って進軍したリシュリューの部隊の前にマザランが単騎で現れ、停戦を呼びかけたという逸話が残されている。1634年、教皇特使としてパリに派遣されたときにリシュリューの信任を得る。

1639年、フランスに帰化し、1641年ルイ13世の推挙によりウルバヌス8世によって枢機卿に就任。

1642年にリシュリュー、1643年にルイ13世が相次いで死ぬと、摂政となった大后アンヌ・ドートリッシュの相談役兼ルイ14世の教育係となる。辞令そのものは出ていないが、実質的な宰相であった。アンヌとは秘密結婚をするまでの仲だったともいわれ、ルイ14世はマザランの子とする説もあるが、アンヌがルイ14世を妊娠した1637年の12月5日にはマザランはまだイタリアにいたため、これは根拠のない噂話である。

1661年にマザランが死ぬと、翌日ルイ14世は親政を宣言、王政フランスの絶頂期へと至った。マザラン自身がルイ14世に親政を勧めたともいう。亡骸はフランス学士院に葬られている。
功績

政策的にはリシュリューを継承し、後のルイ14世の絶対王政の地均しをした。具体的には以下のとおり。

外交・軍事面ではハプスブルク家との対抗を重視、三十年戦争への介入を続け、1648年ヴェストファーレン条約アルザスの大部分及びヴェルダンメッツトゥールをフランス領に取り込んだ。

1659年にはイングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェルと結んでフランス・スペイン戦争(西仏戦争)でスペインを破り、アルトワルシヨンをフランス領に編入し(ピレネー条約)、翌1660年にはルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズ(マリア・テレサ)との政略結婚を実現した。

国内では、戦争継続のために重税を課したことによって、フロンドの乱(1648年 - 1653年)を招いたが、反乱側の内部分裂を利用してこれを鎮圧。結果として大貴族勢力を弱体化させ、王権を強化した。

財政面ではコルベールを登用して重商主義を推進した。

親族

自身は聖職者のため独身だが、妹ジェローラマ・マザリーニが生んだ5人の姪ラウラオリンピアマリーオルタンスマリー・アンヌを政略結婚に利用した。ルイ14世の愛妾も含まれているという。ポールフィリップの兄弟も軍人、貴族に取り立てられた。また、姉ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニの娘であるアンヌ・マリーラウラ姉妹も同様に政略結婚に利用、それぞれコンティ公アルマンモデナアルフォンソ4世・デステに嫁いだ。


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