ジュルナル・デ・ヴォヤージュ
Journal des voyages
表紙「人喰いの木」
(1878年9月8日刊)
ジャンル旅行記・文学
刊行頻度週刊
発売国 フランス
言語フランス語
発行人C.L.ファール
ジュルナル・デ・ヴォヤージュ (仏:Journal des voyages) は、フランスのイラスト入り週刊新聞。1877年にパリで設立され、1949年まで刊行された。旅行や探検の現実的な物語と信じられないようなフィクションを混ぜ合わせた内容となっている。 本紙はシャルル・リュシアン・ファール
歴史
第一期 (1877年-1896年)
1877年、モーリス・ドレイフュス(Maurice Dreyfous, 1843-1924)は人気の探検旅行に関する週刊誌を立ち上げるために、ジョルジュ・デコーと協力した。デコーは一年前に廃刊したイラスト諷刺雑誌「エクリプス」の設立者であるフランソワ・ポウロウから雑誌を引き継いでおり、ファールは友人であり仲間であるポウロウやデコーのような出版者から恩恵を受けていた。ドレイフュスとデコーは苦境に陥っていたこのファールの雑誌を買い取った。
ドレイフュスは、この新聞で多くの作品を出版した。彼はエミール・ゾラやギュスターヴ・フローベールと友人であった。彼はロンドンと連絡をとり、コンゴ川の源流を発見したばかりのヘンリー・モートン・スタンリーの日記を入手することに成功した[2] 。彼はこれを新しい雑誌「Bibliotheque d'aventures et de voyages(冒険と旅の図書館)」で発表した。この雑誌はある程度の成功を収め、アルマン=デジレ・モングレジャン(Armand-Desire Montgredien)がディレクターに就任した。
家族を購買層とするために日曜日に刊行していたこの新聞は二つのオフィスを持っていた。クロワッサン通り7番の「リブレリー・イリュストレ」、フォーブル-モンマルトル通り13番の「リブレリー・ドレイフュス」である。新聞はモノクローム16ページで価格は15サンチームだった。このスタイルは20年間続いた。最初の協力者には、旅行者の混乱したメモを整理するのに長けた地理学会の会員、ジュール・グローがいた。彼は勤めていた新聞社から引き抜かれた[3]。彼は当時ブラジルの領土であった独立ガイアナ共和国を設立して大統領に就任した。
本紙はすぐに読者を獲得したが、唯一の競合誌としてアシェット・リーブルの「ル・トゥール・デュ・モンド」があった。デコーが多くの画家を雇ったとき、ドレイフュスも最初の編集者でもあった画家、アルベール・ロビダの協力を得ることに成功した。小説家のルイ=アンリ・ブセナールの作品も一般の人気を得た。オフィスはサン・ヨセフ通り8番に移転し、事業規模を拡大した。デコーとモングレジャンは、1887年から新しい雑誌「ラ・スィヤーンス・イリュストレ」などの発刊を開始した。ここでロビダは6ページの戯画《モンド・コミック》を依頼されている。 1890年、デコーは病気のために辞任した。彼の株式は1894年にシャルル兄弟とジュール・タランディエ
第二期 (1896年-1915年)
1909年に新しいモデルが出たとき、本紙の発行部数はピークに達したが、出版社「Societe parisienne d'editio」による若い大人を購買層とした新聞「L'Intrepide」が本紙に打撃を加えた。数年前ジョルジュ・ニューネスによって設立された雑誌の「Je sais tout」は「並外れた物語」を提供し、大人の読者層をつかんでいた。本紙の魅力であったイラストや版画も新しく台頭してきた写真にその座を奪われるようになってきた。第一次世界大戦勃発の一年後、まだ15サンチームで販売されていた本紙は一面で軍事物語を採り上げたのち休刊した[7]。 1910年代は購入者に支えられていたが、タランディエの管理の元にタイトルが「Journal de voyages, sur mer, sur terre, dans les airs」に変わった。これは若い読者を対象としており、1920年2月26日から1921年10月13日まで発行された。 タランディエは1934年10月16日、本紙を通俗科学紙として送り出し、科学ディレクターのモロー神父と編集者のギィ・ド・テラモン 1925年9月、出版社のエディシオン・ラルース ここで本紙はアンリ・ヴァスール(Henri Vasseur)の指揮のもと、マルセル・デア 1946年4月、本紙は元のタイトルで灰のなかから立ち上がった。4色の表紙と2色の本文ページで若い読者を対象とした。表紙キャプションは資源の不足により粗悪な印刷となっている。本紙は1949年末に終刊した。
第三期 (1920年-1921年)
第四期 (1924年-1925年)
第五期 (1925年-1931年)
政治的な時期 (1931年-1938年)
第六期 (1946年-1949年)
制作作家と旅行者
Constant Amero
Louis Boussenard
Charles Canivet
Leon Charpentier
Edmond Chaudoin
Jules Claretie
Henri Coudreau
Capitaine Danrit
Paul d'Ivoi
Pierre de La Blanchere
Antoine Mizon
Maxime Petit
Louis-Xavier de Ricard
Rene Thevenin
Georges Thomann (1872-1943) (G. Nohmant名義で「偉大なアフリカの物語」を出版)
Victor Tissot
Jules Trousset
Paul Vigne d'Octon
Gustave de Wailly
描画
Horace Castelli
Clerice Freres
Mme P. Crampel
Damblans
Frederic Dillaye (photogr.)
Le Clerc
Jules Ferat
Dieudonne Lancelot
Frederic Regamey
Louis Tinayre (1861-1942)
Edouard Francois Zier
表紙ギャラリー
1901年
1903年
1904年
1908年
1909年
1912年
1915年
脚注^ ⇒Notice d'autorite, sur le site de la BNF.
^ M. Dreyfous, Ce qu'il me reste a dire : un demi-siecle de choses vues et entendues (1848-1900), Paris, Ollendorff, 1913, p. 336 - sur Gallica.
^ ⇒Journal des voyages n° 338 consacre a l'or en Guyane, par Jules Gros.
^ a b c Fonde par J. Gerlier et Charles-Lucien Huard en 1875, repris sous la forme d'une revue en 1888 chez L. Boulanger, 100 numeros - ⇒cf. notice de la BNF.