ジュリー・ニクソン
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ジュリー・ニクソン・アイゼンハワー
Julie Nixon Eisenhower
2010年
生誕Julie Nixon
(1948-07-05) 1948年7月5日(75歳)
アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
職業作家
配偶者デイヴィッド・アイゼンハワー (m. 1968)
子供ジェニーを含む3人


リチャード・ニクソン

パット・ニクソン

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ジュリー・ニクソン・アイゼンハワー(Julie Nixon Eisenhower, 1948年7月5日 - )は、アメリカ合衆国の作家である。第37代アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンとその妻パット・ニクソンの娘である。夫のデイヴィッド・アイゼンハワーは、第34代大統領ドワイト・D・アイゼンハワーとその妻マミー・アイゼンハワーの孫である。

父リチャードが下院議員だった1948年にワシントンD.C.で生まれたジュリーは、姉のトリシア・ニクソン・コックスと共に世間の注目を浴びながら育った。父は彼女が2歳の時にカリフォルニア州選出の上院議員、4歳の時にアメリカ合衆国副大統領に当選した。1968年のデイヴィッドとの結婚は、アメリカ合衆国で最も著名な政治家一族(英語版)の結合とみなされた。

ニクソン政権(英語版)時代(1969年 - 1974年)、ジュリーは『サタデー・イブニング・ポスト』誌の副編集長として働きつつ、「ファーストドーター」という非公式な肩書きを持った。ジュリーは父の最も声高な擁護者の1人として広く知られ、1970年代の『Good Housekeeping』誌の読者が選ぶ「アメリカで最も賞賛される10人の女性」に4年間選ばれた。1974年に父が大統領を辞任した後は『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーとなった母の伝記本『Pat Nixon: The Untold Story』を執筆した。彼女は両親の遺産を支援する活動を続け、リチャード・ニクソン財団(英語版)を務めている。

娘のジェニー・アイゼンハワーとメラニー・キャサリン・アイゼンハワー、息子のアレックス・アイゼンハワーがいる。
生い立ち

ジュリー・ニクソン(Julie Nixon)は父のリチャード・ニクソンが下院議員であった時にワシントンD.C.のコロンビア女性病院(英語版)で生まれた。彼女の幼少期の大部分は父がドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領(1953年 - 1961年)を務めていた時期と重なる。彼女は父がロマン主義であったのに対し、母は「現実的で地に足の付いた」人物であったと回想している[1]。母は父の政治的キャリアからジュリーと姉を「封印」しようとした[2]。アイゼンハワーは2回目の大統領就任式で写真を撮られていた8歳のジュリーにそり遊びの事故で負った黒目を隠すために首をかしげるように助言した。彼女がデイヴィッドに顔を向けると、彼が直接自分を見つめたようにとれた[3]。祖母のハンナ・ニクソンは両親が旅をするたびにジュリーと姉の子守に来ていた[4]。1952年の副大統領選挙運動中に行われた父の有名な演説(英語版)にはチェッカーズという名のコッカー・スパニエルが登場するが、これは彼女のお気に入りのペットであった。当時4歳のジュリー・ニクソンと共和党大統領候補のドワイト・D・アイゼンハワー。彼女はこの後に副大統領となる父に抱かれている。

父の副大統領任期中、ジュリーは姉のトリシアと共にワシントンのシドウェル・フレンズ・スクールに通った。1960年の大統領選挙で父がジョン・F・ケネディに敗れた後、ジュリーはその結果に「打ちのめされ」、票が「盗まれた」と感じた[1]

1960年の大統領選挙に敗れた後、一家はカリフォルニア州に戻り、父は1962年の州知事選挙に立候補したがまた敗れた。その後ニクソン一家はニューヨークに移り、ジュリーはチャンピン・スクール(英語版)を卒業後にスミス大学に入学した[5]。1971年に彼女はアメリカ・カトリック大学(英語版)で教育の修士号を取得した。彼女がスミス大在学中、近くのアマースト大学にはアイゼンハワー元大統領の孫のデイヴィッド・アイゼンハワーが通っていた。ジュリーとデイヴィッドはハドレー共和党女性クラブに招待されて講演を行った。クラブは2人がわずか7マイルしか離れていないことを知って講演者として呼び寄せたのである[6]。2人は招待状について話し合い、辞退を選んだが、デイヴィッドがアマーストのルームメイトと共にジュリーを訪ね、彼女と友人を連れてアイスクリームを食べに行った際に彼らは再接近することとなった。デイヴィッドは「僕は一文無しで、ルームメイトは財布を忘れていた。彼女たちが払ってくれたんだ」と振り返った[7]
結婚共に23歳の時のジュリーとデイヴィッド・アイゼンハワー(1971年)釣りをするジュリーとデイヴィッド・アイゼンハワー(1971年)

1966年秋、スミス大学とアマースト大学の新入生であった彼女とデイヴィッド・アイゼンハワーは交際を開始し、1年後には婚約した[8]。2人は共にマミー・アイゼンハワーが彼らの関係に大きな役割を果たしたことを認めている[9][10]。1966年のニクソン夫妻の友人のレイモンド・ピトケアン(英語版)の葬儀の際、ジュリーはスミス大学に進学することをマミーに告げた。マミーはデイヴィッドがアマースト大学に進学予定であることを告げ、すぐにデイヴィッドに彼女を訪ねさせようとし始めた[11]

1966年、ジュリーはニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルで開催されたインターナショナル・デビュタント・ボール(英語版)で上流社会の人々にデビュタントとして披露された。その際にデイヴィッドが彼女の民間エスコート役を務めた[12]

父が大統領選挙に勝利し、就任を目前に控える1968年12月22日、ジュリーはデイヴィッドと結婚した。彼らはホワイトハウスで結婚式を挙げるような人目を引くことは避けたいと考えた[13]。結婚式はノーマン・ヴィンセント・ピール牧師が取り仕切り、ニューヨークのマーブル協同教会で超教派で行われた。

1970年、ケント州立大学銃撃事件の後に授業が中止となったために夫婦はマサチューセッツ州を離れた。父が大統領を辞職すると2人はジュリーの両親に近いカリフォルニア州に移り、その後はフィラデルフィアに住んだ[14]。夫妻には女優のジェニー・エリザベス(Jennie Elizabeth, 1978年8月15日)[15]、アレクサンダー・リチャード(Alexander Richard, 1980年生)、メラニー・キャサリン(Melanie Catherine, 1984年生)が生まれた。
ファーストドーター

リチャード・ニクソンが共和党候補者として出馬していた1968年アメリカ合衆国大統領選挙でジュリーは父の選挙戦に十分に積極的に参加できていないと感じ始め、また当時通っていたスミス大学はヒューバート・ハンフリーの人気と思われるものを心配していた[16]。彼女は選挙運動に積極的に参加し、人々に挨拶をしながら何時間も握手に応じた。人目を気にせず、「個人的な質問」に答えることを嫌いながらも父に貢献するためにあらゆることをした[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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