ジュリア・カロザース
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ジュリア・サラ・カロザース
Julia Sarah Carothers

個人情報
出生 (1845-06-30) 1845年6月30日
アメリカ合衆国バージニア州(現ウェストバージニア州ホイーリング
死去 (1914-03-26) 1914年3月26日(68歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ
墓所ホープ山墓地(サンディエゴ)
国籍 アメリカ合衆国
両親父:リチャード・V・ドッジ
配偶者クリストファー・カロザース
職業宣教師神学校教師
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ジュリア・カロザース(Julia Sarah Carothers、1845年 - 1914年3月26日)は、明治2年に夫婦で来日した、長老派宣教師で、クリストファー・カロザース(カラゾルス)の妻。

原女学校の前身長老派女学校(B六番女学校)を設立した人物である。「ジュリア・カラゾルス」とも表記する。
歴史
初期クリストファー・カロザース宣教師

1845年にバージニア州(現ウェストバージニア州ホイーリング牧師リチャード・V・ドッジ(Richard Varick Dodge)の長女として生まれる。小学校の教師を勤める。

1869年4月6日にウィーリングの第四長老教会で、アメリカ合衆国長老教会の宣教師クリストファー・カロザースと結婚式を挙げる。6月にウィーリングを出発して大陸横断鉄道に乗り西海岸に行く。
来日

1869年7月、サンフランシスコ港から「グレート・リパブリック号」に乗り、7月27日に横浜港に着いた。

カロザース夫妻は、クリストファーの友人エドワード・コーンズ夫妻の紹介で、横浜居留地39番のジェームス・カーティス・ヘボン宅の長老教会宣教師館に滞在した。

夫クリストファーはデイヴィッド・タムソンエドワード・コーンズと一緒に、東京の視察を行い、東京の伝道に力を注ぐことになった。

ヘボンとカロザースが東京に出て、築地雑居地域の南小田原町の日本家屋を賃貸し、10月にジュリアはクリストファーと共に東京築地に移住した。築地の日本家屋を改修して住み始める。すると、青年たちが英語の指導を求めて訪ねてきた。そこで、東京における最初のミッションスクールカロザース塾が開始された。

1870年(明治3年)6月2日に築地外国人居留地の第1回競貸しが行われ、在日ミッションは築地の沿岸部の6番地375坪を、タムソンとカロザースの連名で購入した。そこに、カロザース夫妻ようの2棟の宣教師館を建設した。1870年10月に完成し、夫妻はそこに住むことになる。1871年2月にジュリアが体調を崩して、アメリカに一時帰国する。一時帰国中にジュリアは日本の女子教育の使命を抱いた。1872年(明治5年)3月5日にジュリアが再来日すると、千村五郎が2人の少女を連れてきた。この2人の少女からジュリアの女学校が始まった。

1872年(明治5年)4月3日、銀座大火がある。関連する火事で6番地の宣教師館が焼失する。日本橋馬喰町の日本旅館に避難した。ここで、ジュリアは音楽の授業を行い、生徒達に讃美歌を歌わせた。避難生活の後1ヶ月後にバラックを建てて戻り、1873年2月に築地居留地6番のミッション・ロットに自宅用のA棟、他の宣教師用のB棟を再建した。さらに、ミッションの同意を得ないまま、小会堂兼教室と石造りの倉庫を建設した。

1872年8月に銀座万年橋に開校した上田女学校でジュリアは流暢な日本語で教えた。


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