ジュリアン・ベイリー
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ジュリアン・ベイリー
Julian Bailey
ジュリアン・ベイリー
1991年アメリカGP
基本情報
国籍 イギリス
生年月日 (1961-10-09) 1961年10月9日(62歳)
ジュリアン・テレンス・ベイリー
Julian Terence Bailey
出身地 イングランド
ロンドン ウーリッジ

基本情報
F1での経歴
活動時期1988,1991
所属チーム'88 ティレル
'91 ロータス
出走回数20 (7スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント1
ポールポジション0
ファステストラップ0
初戦1988年ブラジルGP
最終戦1991年モナコGP
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BTCCでの経歴
チームニッサン
トヨタ
ドライバーズ
チャンピオン0
勝利数1
表彰台3
ポール
ポジション1
ファステスト
ラップ2
デビュー1991
初勝利1993
最高位5位 (1993)

ジュリアン・テレンス・ベイリー(Julian Terence Bailey, 1961年10月9日 - )は、イギリスの元レーシングドライバー1988年1991年F1世界選手権に参戦した。1999年のイギリスGT選手権、2000年のFIA GT選手権シリーズチャンピオン。
来歴

イギリス・ロンドン東部で生まれたが、子供の頃をスペインメノルカ島で過ごしたため、レーシングキャリアのスタートはスペインのカートレースが最初だった[1]

1980年、イギリス・フォーミュラ・フォードで4輪レースに転向し、ランキング8位となる。1982年にイギリス・フォーミュラフォード1600でチャンピオンを獲得[2]ブランズハッチで行われたフォーミュラ・フォード・フェスティバルでも総合優勝を成し遂げた。

1983年にフォーミュラ・フォード2000へとステップアップしランキング3位(ランキング2位はマウリシオ・グージェルミン)。シーズンの閉めに行われるビッグレース「BBC TV Grandstand Formula Ford 2000 Trophy」ではアンソニー・レイドアンディ・ウォレスを破り優勝を果たした。

1985年にデビッド・プライス・レーシングイギリスF3選手権のシートを得てステップアップ、1986年にスワロー・レーシングに移籍し、4回の表彰台獲得でランキング6位を記録。1987年シーズン途中からGAモータースポーツに移籍し、F1直下カテゴリーである国際F3000選手権のシートを獲得。第7戦ブランズハッチでF3000初優勝をマーク、この勝利は国際F3000選手権創設後初のイギリス人による優勝だったため、イギリスのレースメディアでの注目株となり、ケン・ティレルの目に留まることにもなった。11月のマカオグランプリF3にも参戦し、レイナード873・アルファロメオで4位と上位の結果を残す。同年の活躍により、1988年にはスポンサーを持参しティレルからのF1デビューが決まった。なお、ジョニー・ハーバートデイモン・ヒルマーティン・ドネリーはフォーミュラ・フォード時代からイギリスF3、国際F3000までほぼ同じタイミングで同カテゴリーに参戦したライバルであり友人である。イギリスF3ではロス・チーバーアンドリュー・ギルバート=スコットと同時期参戦だった。
F1
1988年

ティレルからF1デビューとなったが、この年チームが開発したティレル・017は重度のアンダーステアという持病がありコーナリング性能が低く[3]、決勝に進出したのはわずか6回・ノーポイントに終わり、チームメイトのジョナサン・パーマーに対して2勝14敗と大きく負け越した。ティレルとの契約は更新されなかったため、新たなシートを求めて翌1989年からのF1参戦を予定していたファースト・レーシングと交渉しシート獲得濃厚となっていたが、参戦資金の問題で2カーエントリーから1カーエントリーへと計画変更されたため立ち消えとなり[4]、フランスのラルースとテストドライバーとして契約[5]。日本のニスモとレースドライバー契約し、F1から離れてグループC(WSPC)マーク・ブランデルとのコンビで2年間参戦した。
1991年

スポーツカーレース参戦後、負傷したマーティン・ドネリーの代役としてロータスと契約し、3年ぶりのF1復帰を果たす[6]。同年開幕前のロータスはメインスポンサーなしと、チーム存続が危ぶまれている状況だったが、3年前にデビュー戦となったサンマリノGPで6位入賞(自身F1初入賞)を果たす。さらにチームメイトのミカ・ハッキネンも5位入賞しており、ロータスにとって同年唯一のダブル入賞となった。しかしながらベイリーのポイント獲得と決勝進出はこのサンマリノGPのみであり、第4戦終了後に持ち込んだスポンサー資金が終了したためジョニー・ハーバートにシートを譲り、F1シートを失った。
その後

1991年は日産、1993年にはトヨタからイギリスツーリングカー選手権に参戦、年間ランキング最高位は5位を記録し、1995年までフル参戦した。1999年のイギリスGT選手権(英語版)でリスター・ストームから参戦しチャンピオンを獲得。翌2000年には同チームでFIA GT選手権に参戦し、ここでもシリーズチャンピオンに輝いた。

現在はドライバーから引退し、ESPNのF1中継ゲスト解説者として活動中。また、BBCの自動車番組『トップ・ギア』内の覆面ドライバー「ザ・スティグ」の一人だった[7]
人物

ジュニアフォーミュラ参戦時代には
ロンドン北部でパブを経営しており、レース活動を本格化させるためにパブを売却した。

幼少期は貧しく、成人してからも読み書きが不得意だったという。

1980年のフォーミュラ・フォードデビューから継続してレース活動を続けられたわけではなく、1981年と1984年はレース活動をほとんど行えず、1985年にイギリスF3のシートをハーフシーズン得て活動復帰した。1987年も開幕時にシートが無く、シーズン途中から国際F3000シートを得て活動を再開している。

継息子のジャック・クラーク (レーサー)(英語版)もレーシング・ドライバーとなった。フォーミュラ・BMW、フォーミュラ・パーマー・アウディ(英語版)への参戦後、FIA F2選手権に参戦。2014年からイギリスツーリングカー選手権にデビューしている。

レース戦績
国際フォーミュラ3000

年エントラントシャシエンジンタイヤ1234567891011DCポイント
1987年GA・モータースポーツローラ・T87/50コスワース DFVASILVLLSPAPAUDON


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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