ジュリアン・ハクスリー
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ジュリアン・ハクスリー
Julian Huxley 
ニューカレッジの会員となったジュリアン・ハクスリー(1922年、35歳)
生誕 (1887-06-22) 1887年6月22日
イギリスロンドン
死没 (1975-02-14) 1975年2月14日(87歳没)
イギリスロンドン
居住 イギリス
イタリア王国
ドイツ帝国
国籍 イギリス
研究分野進化生物学
研究機関ライス研究所オックスフォード大学キングス・カレッジ・ロンドンロンドン動物学会ユネスコ
出身校オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
主な業績総合進化説ヒューマニズム、ユネスコ、環境保護優生学
影響を
受けた人物T・H・ハクスリー
影響を
与えた人物E・B・フォードギャヴィン・デ・ビーアオルダス・ハクスリー
主な受賞歴ダーウィン・メダル(1956)
ダーウィン=ウォレス・メダル(1958)
プロジェクト:人物伝
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サー・ジュリアン・ソレル・ハクスリー(Sir Julian Sorell Huxley、1887年6月22日 - 1975年2月14日)は、イギリスの進化生物学者ヒューマニスト、国際間協力の推進者。

自然選択説を強力に擁護し20世紀中盤の 総合進化説の形成を主導した。1935年から1942年までロンドン動物学会の事務局長、1946年から1948年までユネスコの初代事務局長を勤めた。世界自然保護基金の創設メンバーでもある。

ハクスリーは書籍や記事、ラジオ、テレビで科学啓蒙活動を続けたことでよく知られていた。1953年にユネスコから科学普及の功績に対してカリンガ賞を贈られた。1956年には王立協会からダーウィンメダルを受賞した。ダーウィンとウォレスが自然選択説を発表してからちょうど100年後の1958年にはロンドン・リンネ学会からダーウィン=ウォレス・メダルが贈られ、同年ナイトに叙された。1959年に人口問題に関する家族計画分野でラスカー財団から特別賞を受賞した。
生涯

ジュリアン・ハクスリーはイギリスの著名なハクスリー一族の出身で、彼の弟には作家オルダス・ハクスリー、異母弟にはノーベル賞受賞者のアンドリュー・ハクスリーがいる。彼の父は作家、編集者のレオナルド・ハクスリーで、父方の祖父は チャールズ・ダーウィンの友人であり有力な支援者であったトマス・ヘンリー・ハクスリーである。母方の祖父は人文学者のトム・アーノルド、大叔父には詩人マシュー・アーノルドがいる。曾祖父は、教育者のトーマス・アーノルドである。
幼少時代トマス・ヘンリーとジュリアン。1893年。

ハクスリーは1887年に叔母の小説家マリー・オーガスタ・ウォードの家で生まれた。彼が生まれたとき、父レオナルドはヴィクトリア女王の即位50周年記念式典に出席中だった。ハクスリーはイングランドのサリーで祖父の薫陶を受けながら育ち、幼い頃から自然への興味を示した。トマス・ヘンリーが夕食の席で魚が子育てしないことを話し出したときに、「トゲウオはどうなの、おじいちゃん?」と言った(トゲウオは子育てをする)。祖父に連れられてキュー・ガーデンJ.D.フッカーを訪ねたこともあった[1]

13歳の時に奨学生としてイートン校に入学し、科学への興味をのばした。彼の祖父はイギリスの科学教育の確立に大きな影響を与えた初期の一人でもあった。イートン校では「ピギー」と呼ばれた科学教師W.D.ヒルの指導の下で、特に鳥類への関心を強めた。後年、回想して次のように語っている。「ピギーは素晴らしい教師でした...私はいつも彼に感謝していました[2]」。1905年オックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学した。

1906年の晩夏、ドイツ発生学原虫への興味を抱いた。1908年、大学生活最後の年の秋に母親が46歳の若さで癌で死去した。まだ若い息子たちと8歳の幼い娘を抱えるハクスリーの家族にとって大きな打撃であった。1909年に大学を首席で卒業した。6月にはケンブリッジ大学で開催されたダーウィン生誕100周年の記念国際会議に参加した。同年は『種の起源』公刊50周年でもあった。
青年時代カンムリカイツブリ

ハクスリーは奨学金を得て1年間ナポリの海洋生物研究所で過ごし、ウニホヤの研究によって発生学を学んだ。1910年にオックスフォード大学動物学・比較解剖学の助手に任命され、ミズドリ(アカアシシギカイツブリなど)の求愛行動の系統的な観察研究に着手した。子どもの頃のバードウォッチングはハクスリーの鳥類への関心を刺激し、鳥類の調査と保全の手法を考案する助けとなった。1914年カンムリカイツブリに関する論文(のちに本として出版された)は鳥類の行動学におけるランドマークとなった。儀式的行動に対して「ペンギンダンス」や「プレシオサウルスレース」といった印象的な呼称を付けたが、これらは一般の読者の興味をひき、忘れがたいアイディアとして印象づけるのに成功した[3]

1912年アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに開設されたライス研究所で生物学部を指導するようエドガー・オーデル・ラベットから依頼された。依頼を受けたハクスリーは1912年9月に下見のために米国へ渡り、ライス研究所の他にいくつかの主要な大学を訪問した。コロンビア大学トーマス・ハント・モーガンのショウジョウバエ研究室で大学院生だったハーマン・J・マラーをライスに招聘した。マラーは招聘を引き受け、博士号を急いで取得すると1915-16年の学期に間に合うようヒューストンへ移住した。ライスでマラーは生物学を教え、ショウジョウバエの研究も続けた。情報部時代のハクスリー。1918年。ジュリエット・ハクスリー。1929年頃。ハクスリーと二人の息子、アンソニーとフランシス

ライス研究所で助教授として着任する前に、新しい仕事の準備としてドイツに一年間滞在した。第一次世界大戦が勃発するほんの数ヶ月前に研究所で働いていたとき、ハクスリーは他の研究者が通過する航空機について「この飛行機がイギリスの上空を飛ぶ日はそう遠くない」と話すのを耳にした。


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