ジュリアナ東京
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ジュリアナ東京 入口跡(2022年9月)

ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)は、1991年平成3年)5月15日から1994年(平成6年)8月31日までウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦に所在していたディスコである。正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」である。
概要

ジュリアナ東京は、総合商社・日商岩井(当時)とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により、1991年5月15日にオープンした。所在地は東京都港区芝浦1-13-10 第三東運ビル1階。総面積は1200m2、最大収容人数は2,000人[1]

ジュリアナ東京で扱う音楽ジャンルは、オールジャンルの時期を経て、イタロハウスハードコアテクノ、ハイパーテクノに変遷した。また、ジュリアナ東京のメインDJは、当時のディスコ専属DJとしては珍しい、アイルランド人ジョン・ロビンソンで、彼のDJスタイルやMCもジュリアナ東京を特徴付けた。

所在地だった港区芝浦・海岸地区は、バブル期にはウォーターフロント地区と呼ばれ、港湾設備や倉庫を改造した「芝浦ゴールド」(港区海岸)や「オーバー2218」といった有名ディスコが存在し、1980年代後半にはディスコ・ムーブメントの発信地として脚光を浴びていた。
歴史
開業までのいきさつ

1990年春、東京倉庫運輸の経営陣(当時)から「今度、テナントが出て行く倉庫があるので、そのスペースを有効活用できないか」と相談を受けた、当時日商岩井の一社員であった折口雅博がディスコを提案した際、「ディスコを運営する会社に建物をリースする形なら企画に乗ってもいい」と同意を得た。折口は日商岩井の上司の反発を受けながらも開業資金を集め、東京倉庫運輸の子会社である東運レジヤーとの共同出資で、1991年5月15日にジュリアナ東京を開業した。

ジュリアナ東京開店時のコンセプトは、「普通のOLが上品な夜を過ごせるイギリス資本のコンサバティブディスコ」。これは、バブル期の時代の最先端であり、一見客には極めて入りづらかった「芝浦ゴールド」(1989年開店)へのアンチテーゼとして立案されたが、お立ち台ブームにより変化していった(後述)。

エントランスからサイドがオブジェで飾られた空間を通り、まず巨大な自動ドアに辿り着く。そのドアから一歩中に入ると、DJブース、色鮮やかなライティングが眼前に現れ、重厚なサウンドが響き渡り、大箱のダンスフロアの熱気が一気に肌を打つという空間だった。女性のみが登れるお立ち台に対し、ダンスフロアを挟んでDJブースの向かい側の男性でも利用できる通称「雛壇(ステージ)」や、ボディソニックの音響設備、レーザー・スモーク・モニター等を取り入れ、ライティングオペレーション、ダンスフロアには巨大なシャンデリア、壁画やオブジェも設置し、大きな空間を最大限に活用した時代の最先端の大箱ディスコであった。また、DJジョン・ロビンソンの「ジュリアナス?トキオ?!」は会場のボルテージが最高潮に達するほど有名なMCである。海外アーティストを頻繁に招きライブも実施した。
絶頂期

ジュリアナ東京に関して象徴的に語られることが多いのが、通称「お立ち台」と呼ばれる、ダンスホールの両脇に設置された高さ130cm程のステージである。このお立ち台やそこで踊る女性がマスコミに大々的に取り上げられるにつれ、次第にワンレンボディコンの女性が集まるようになる。お立ち台でジュリ扇(ジュリアナのロゴ入り扇子でVIPルームで配られたもの。または羽付き扇子)を振り回して踊る光景が一世を風靡した。

店内は基本的にフリーシート。しかしVIPルームを含めても、席数は300弱であったため、ほとんどのゲストが着席できない状態であった。開店前には、田町東京ガスの外塀の前にまで行列ができ、約500人は開店前に並ぶことも頻繁であった。一方、ドレスコード、入場制限等で、一日500人以上のゲストの入場をお断りすることもあった。

オーダーは着席ゲストしか取らない(人が多すぎてオーダーしたゲストを識別できない。伝票にテーブルナンバーが書けない)ため、バーやフードコーナーに基本的に並ぶ必要があった。混んでいると30分から1時間程度並ぶ必要があった。全盛期は、平日でも1000人以上の集客があり、台風で山手線が止まった月曜日[いつ?]であっても、約800人が来店した。1991年年末頃の金・土・日曜日は2000人以上、3000人を超えることもままあった。そのため、店内が鮨詰め状態であり、周囲の他人と触れることなく、店内を移動することは不可能であった。

メディアの取材が1日20社を超えることもあり、海外メディアも取材していた。映画の試写会、サークルのイベントパーティ、企業の貸切イベント等がジュリアナで実施された。

最寄り駅のJR田町駅の芝浦口では、ジュリアナ東京まで徒歩で赴くボディコン女性たちの姿が見られ、昼のオフィス街のOLの服装とはそぐわない、ある種異様な光景が日常茶飯事のように見受けられた。また、閉店間際になると、帰宅する女性を家まで送り届けるという名目で、周辺で「ゲッターズ」と呼ばれるナンパ車が多く出没した。帰りの山手線の中でも、ボディコンを着たまま電車に乗って帰る女性が数多く見受けられた。なお、「ジュリ扇」と言われる羽の扇子は、後期には田町駅からジュリアナまでの間の歩道の露天等でよく売られていた。

なお、テレビ番組でボディコン女性が「ジュリ扇」を振り回して踊る光景やジュリアナ東京の映像が、今日も「バブルを象徴する光景」として紹介されることが多い。しかし、ジュリアナ東京が営業していた1991年5月から1994年8月は、実際には徐々に進行するバブル崩壊期、景気後退期にあたることに注意が必要である[2] [3]。このズレは、この時期にはまだバブルの物語が終わっていなかった証左とされる[4]

折口は日商岩井を退職してジュリアナ東京の経営に専念していたが、別の企業への運営委託を契約違反とした東京倉庫運輸側から経営権に関して提訴され、同社と和解した後、ジュリアナ東京の経営を退いた[5]
経営不振

一因に、大ブームにおけるエイベックスの『JULIANA'S TOKYO』シリーズのCD売り上げ増加に伴い、1993年に入るとCDの付録についている無料入場券を持っての一見客が、次第に多数を占めるようになっていったことが挙げられる。つまり、それまでと違うミーハーな客層、一見の初心者が増えたことによって、上客であった芸能人やモデル、医者やサラリーマン、遊び人大学生などの常連などは、ライバルの「芝浦ゴールド」や六本木西麻布など他のエリアのディスコや新進のクラブに流れ、足が遠のいた上、その一見客がリピートしないことにより、次第に収益が悪化していった。

また実感は薄かったが、開店時にはすでにバブル景気は終わっており[2] [3]、徐々に深刻化するバブル崩壊の余波がそれに輪をかけた。

さらに、単に「肌を露出した女性が多い」といった一面的なマスメディアの偏見報道により、下心を抱いた男性が集まってきて雰囲気が壊れ、荒廃していった。1993年に入ってからは、女性の露出度の高さに対し度々警察の指導・捜査が入り、臨時休店・休業が増加したことも経営に悪影響を与えた。1993年11月にはお立ち台は撤去された。後に「クリスタル(サイド)ステージ」と名前を変え、高さも面積も縮小して復活したが、この一連の騒動で失った客足を取り戻すことはできなかった。
閉店

1994年初頭に閉店を発表した際、マスコミ向けには「ディスコシーンに置ける役割は充分果たした上での栄誉ある撤退」とし、表向きではジュリアナサウンド・音楽シーン・ファッション・ブームの創造を広く世間に認知させたジュリアナの威光が地に落ちる前の「勇気ある撤退」とされた。しかし実際には、上記のように客足の落ち込みによる経営不振が閉店の一番の要因であった。

また、小箱の「クラブ」に日本のダンスシーンのブームが移ったことと、さらに1980年代前半から続いたと言われる「第二次ディスコブーム」自体の終焉であったと言われることも多い。


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