ジュリアス・ベネディクト
Julius Benedict
基本情報
生誕1804年11月27日
ヴュルテンベルク公国、シュトゥットガルト
死没 (1885-06-05) 1885年6月5日(80歳没)
イングランド、ロンドン
職業作曲家、指揮者
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ジュリアス(ユリウス)・ベネディクト(Julius Benedict, 1804年11月27日 - 1885年6月5日)は、ドイツ出身のイギリスの作曲家、指揮者。 ヴュルテンベルク公国、シュトゥットガルトのユダヤ人の銀行家の息子に生まれ、ヴァイマルでフンメルに、ドレスデンでウェーバーに作曲を学ぶ。ウェーバーの紹介で1823年10月5日にベートーヴェンと会っている。彼はこの年にウィーンのケルントナートーア劇場(Theater am Karntnertor)のカペルマイスターに任用されており、その2年後の1825年にイタリア、ナポリにあるサン・カルロ劇場のカペルマイスターを務める。ナポリでは若き天才テオドール・デーラーにピアノを教えた。 ナポリでは初めてのオペラ作品「Giacinta ed Ernesto」を1827年に初演し、他にも1830年には故郷のために作曲した「I Portoghesi in Goa
生涯
1838年、マイケル・ウィリアム・バルフ[注釈 2]が非常に人気であった頃、ベネディクトはシアター・ロワイヤル[注釈 3]の指揮者となった。そこでは自作のオペラ「The Gipsy's Warning」(1838年)、「ヴェニスの花嫁 The Bride of Venice」(1844年)、「十字軍 The Crusaders」(1846年)を初演している。1848年にメンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」をエクセター・ホール[注釈 4]で上演した。これはジェニー・リンドが初めてオラトリオを歌った公演であった。また彼は1850年にはリンドのアメリカツアーの補佐として共に渡米している。
1852年に帰国するとすぐ、ベネディクトはヘンリー・ジェームズ・メープルソン(英語版)[注釈 5]の運営の下、ハー・マジェスティーズ・シアター[注釈 6]と後にシアター・ロワイヤルで音楽監督となった。また、同年にはハーモニック・ユニオンの指揮者にも就いている。この頃の彼の知られていない作品には、1858年作曲の「コンサーティーナとフォルテピアノのためのアンダンティーノ」がある[1]。1860年にはウェーバーの「オベロン」のイタリア語公演用のレチタティーヴォを作っている(当時のイングランドではドイツ語のオペラをイタリア語で上演する伝統があった)。同年のノリッジ音楽祭では自作のカンタータ「水の精 Undine」を上演しているが、この公演はクララ・ノヴェロの最後の公での舞台となった。