ジュリアス・ベネディクト
[Wikipedia|▼Menu]

ジュリアス・ベネディクト
Julius Benedict

基本情報
生誕1804年11月27日
ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルト
死没 (1885-06-05) 1885年6月5日(80歳没)
イングランドロンドン
職業作曲家指揮者
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

ジュリアス(ユリウス)・ベネディクト(Julius Benedict, 1804年11月27日 - 1885年6月5日)は、ドイツ出身のイギリス作曲家指揮者
生涯

ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルトユダヤ人銀行家の息子に生まれ、ヴァイマルフンメルに、ドレスデンウェーバーに作曲を学ぶ。ウェーバーの紹介で1823年10月5日ベートーヴェンと会っている。彼はこの年にウィーンケルントナートーア劇場(Theater am Karntnertor)のカペルマイスターに任用されており、その2年後の1825年イタリアナポリにあるサン・カルロ劇場のカペルマイスターを務める。ナポリでは若き天才テオドール・デーラーピアノを教えた。

ナポリでは初めてのオペラ作品「Giacinta ed Ernesto」を1827年に初演し、他にも1830年には故郷のために作曲した「I Portoghesi in Goa」を上演したが、どちらも評判は芳しくなかった。彼は1834年パリに移ったが、マリア・マリブランの勧めに従い1835年にパリを後にしてロンドンへと向かう。そしてベネディクトはロンドンで生涯を終えることになる。彼は1836年、ライシーアム劇場(英語版)[注釈 1]のオペラ事業の監督に就任し、以前にナポリでも上演していた短いオペラ「Un anno ed un giorno」を再演した。

1838年マイケル・ウィリアム・バルフ[注釈 2]が非常に人気であった頃、ベネディクトはシアター・ロワイヤル[注釈 3]の指揮者となった。そこでは自作のオペラ「The Gipsy's Warning」(1838年)、「ヴェニスの花嫁 The Bride of Venice」(1844年)、「十字軍 The Crusaders」(1846年)を初演している。1848年メンデルスゾーンオラトリオエリヤ」をエクセター・ホール[注釈 4]で上演した。これはジェニー・リンドが初めてオラトリオを歌った公演であった。また彼は1850年にはリンドのアメリカツアーの補佐として共に渡米している。

1852年に帰国するとすぐ、ベネディクトはヘンリー・ジェームズ・メープルソン(英語版)[注釈 5]の運営の下、ハー・マジェスティーズ・シアター[注釈 6]と後にシアター・ロワイヤルで音楽監督となった。また、同年にはハーモニック・ユニオンの指揮者にも就いている。この頃の彼の知られていない作品には、1858年作曲の「コンサーティーナフォルテピアノのためのアンダンティーノ」がある[1]1860年にはウェーバーの「オベロン」のイタリア語公演用のレチタティーヴォを作っている(当時のイングランドではドイツ語のオペラをイタリア語で上演する伝統があった)。同年のノリッジ音楽祭では自作のカンタータ「水の精 Undine」を上演しているが、この公演はクララ・ノヴェロの最後の公での舞台となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef