ジュリアス・ソーパー
青山学院の記念碑
他の役職青山学院神学部学部長[1]、米国ノース・グレンデール・メソジスト監督教会牧師
個人情報
出生 (1845-02-15) 1845年2月15日[2]
アメリカ合衆国メリーランド州プールズビル
Poolesville
ジュリアス・ソーパー(英: Julius Soper、1845年[2]2月15日 - 1937年[2]2月5日、ジュリアス・ソーパルとも)は、米国メソジスト監督教会宣教師、青山学院神学部の教授[1]。明治から大正期の日本に2期にわたって暮らし、2度目の来日後、1895年から離日までキリスト教の教育に専念した[1]。キリスト教関連の多くの出版物を日本語に訳したと伝わる[1]。 1845年、メリーランド州に生まれ、ドルー神学校卒業。米国メソジスト監督教会で按手礼を受け、1873年J・C・デイヴィソン夫妻と共に来日する。来日の翌年には津田仙の経営する麻布の「学農社」を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始。津田仙をはじめ400人に洗礼を授けている。入信者には慶応義塾初代塾長の古川正雄もいた。 1880年(明治13年)には医師の志田良硯に招かれて、山形県天童市に赴き伝道を始め、天童町大字天童小畑甲(現・天童市)に天童美以教会を、1882年に山形教会を設立した[3]。 築地にあった「耕教学舎」の実質的な設立者でもある[注釈 1]。青山学院の源流でもある同校では、英学と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}漢学を教授[疑問点 – ノート]していた[要出典]。青山学院神学部の教授(1896年から1911年)、同学部長(1901年から年1908年)を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館連回区などの長老司[要説明]も務めるなど、日本のメソジスト関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物である[9]。 日米のメソジスト監督教会を結び、2度の滞日の後半は日本代表としてアメリカに出張する機会を2回得た[1]。握手を交わしたアメリカ大統領は第15代ジェームズ・ブキャナン、第16代エイブラハム・リンカーン、第18代ユリシーズ・グラント、第22・24代グロバー・クリーブランド、第25代ウィリアム・マッキンリーの5名である[1]。 1845年2月15日、メリーランド州プールズビル生まれ[1]のソーパーはジョージタウン大学(ワシントンD.C.)からドルー神学校に進む[1]。1867年に卒業[要出典]、宣教師として働くと[11]、1873年に米国メソジスト監督教会ボルチモア年会
人物
生涯
2組の夫妻は同年8月8日、共に来日すると東京で伝道活動につき、ソーパーの妻のメアリーも宣教師として働き始める[12]。明治政府はこの1873年(明治6年)、キリスト教の信仰を許したばかりで[注釈 2]、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、ロシアから宣教師が入国し始めていた。