ジュディ・ガーランド
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ジュディ・ガーランド
Judy Garland
1946年撮影
本名フランシス・エセル・ガム
生年月日 (1922-06-10) 1922年6月10日
没年月日 (1969-06-22) 1969年6月22日(47歳没)
出生地 アメリカ合衆国ミネソタ州グランド ラピッズ(en)
死没地 イングランドロンドンベルグレイヴィア
国籍 アメリカ合衆国
職業女優歌手
ジャンル映画テレビドラマ舞台
配偶者デヴィッド・ローズ(1941?1944)
ヴィンセント・ミネリ(1945?1951)
シドニー・ラフト (1952?1965)
マーク・ヘロン(1965?1967)
ミッキー・ディーンズ(1969)
著名な家族ライザ・ミネリ(娘)
主な作品
オズの魔法使』(1939年)
若草の頃』(1944年)
イースター・パレード』(1948年)
スタア誕生』(1954年)

 受賞
アカデミー賞
子役賞
1939年オズの魔法使
AFI賞
AFIアメリカ映画100年シリーズ
映画スターベスト100
1998年(女優部門第8位)
グラミー賞
アルバム・オブ・ザ・イヤー
1962年『Judy at Carnegie Hall』
最優秀歌唱賞
1962年『Judy at Carnegie Hall』
特別賞
1997年
ゴールデングローブ賞
女優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1954年スタア誕生
セシル・B・デミル賞
1961年
その他の賞

備考
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
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ジュディ・ガーランド(英語: Judy Garland、1922年6月10日 - 1969年6月22日)は、アメリカ合衆国女優歌手

子役として出演した『オズの魔法使』で人気を博し、以後も『若草の頃』、『イースター・パレード』、『スタア誕生』などで抜群の歌唱力を披露してハリウッド黄金時代を代表する大スターの一人となった[1]。 アカデミー・ジュブナイル賞、ゴールデン・グローブ賞、トニー賞特別賞を受賞。1961年に『ジュディ・アット・カーネギー・ホール』と題したライブ録音でグラミー賞の年間最優秀アルバム賞を女性として初めて受賞した。娘は女優のライザ・ミネリ
生涯
生い立ち

ミネソタ州のグランドラピッズ (en) 出身。本名はフランシス・エセル・ガム(Frances Ethel Gumm)。ボードビリアンの両親のもとで3人姉妹の末っ子として生まれる。 両親はグランドラピッズに居を構え、ボードビルの演目を上映する映画館を経営していた。彼女はアイルランド、イギリス、スコットランド、フランスのユグノーの先祖を持ち、地元のエピスコパル教会で洗礼を受けた。

1926年6月、父親に同性愛の傾向があるという噂を受け、一家はカリフォルニア州ランカスターに移住した。この頃から母親は娘たちを映画に出演させるために働きかけ始めた。
デビューガム・シスターズの2人の姉とともに(1935年頃)

1929年、2人の姉と共にガム・シスターズの一人としてデビュー。1935年メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。当初採用候補だったディアナ・ダービンとジュディのうち、社長のルイス・メイヤーは「ジュディを追い出せ」とプロデューサーアーサー・フリードに命じたが、ジュディの歌唱力に注目したフリードが指示を無視してジュディと契約を結んだ。後年、娘のライザ・ミネリは母はディアナと違いダンスが上手であったのがMGMとの契約に有利に働いたのだろうと語っている。なおフリードは関係を持った女優に仕事を回す「キャスティング・カウチ」で悪名高く、また突然の契約だったことから、フリードと当時13歳のジュディの間に性的関係があったとする憶測・中傷が当時から流されたが現在では否定されている。

芸名の「ジュディ」はホーギー・カーマイケルの人気曲のタイトルから取られている。「ガーランド」の由来についてはいくつかの説があり、映画『特急二十世紀』(1934年)でキャロル・ロンバードが演じたリリー・ガーランドにちなんでつけたという説、演劇評論家のロバート・ガーランドにちなんでつけたという説、ボードビリアンのジョージ・ジェッセルが彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪)のようだ」と言ったことから付けた説などがある。

当時13歳のジュディの体重は健康的な範囲内だったが、MGMは契約に「スリムでいること」を含め強制的なダイエットを命じた。体質的に太りやすかった彼女は当時のハリウッドのスタジオでダイエット薬として使用されていた覚醒剤アンフェタミン)を常用するようになる。
MGMでの初期の活躍初恋合戦』(1938年)

MGMはジュディを当時の大スターだったミッキー・ルーニーとコンビを組ませ「舞台裏ミュージカル」と呼ばれるシリーズを次々と制作しヒットさせた[2]。2人は脇役として『サラブレッド・ドント・クライ』(1937年)に出演し、これが初共演となった。その後、ルーニーが主役を演じるハーディ・ファミリー・シリーズの4作目『初恋合戦』(1938年)に、ジュディは隣に住む少女として出演した。『青春一座』(1939年)で初めてダブル主演となり、その後ハーディ・ファミリー・シリーズの『アンディ・ハーディ・ミーツ・デビュタント』(1940年)、『二人の青春』(1941年)を含む5作で共演した。

ガーランドは、自身とルーニーを含めた若い出演者たちは、撮影のペースについていくために常にアンフェタミンを処方されていたと述べた[38]。また、寝る前には眠りを促進するバルビツール酸を飲まされていたと述べた。このような薬物の常用が中毒を引き起こし、生涯にわたっての乱用に繋がったと述べた。しかしルーニーは彼女の中毒の責任がスタジオにあることを否定した。『オズの魔法使』撮影時のジュディ(1939年)
『オズの魔法使』とその後の成功

1939年にミュージカル映画『オズの魔法使』で主役ドロシーに抜擢され、人気スターとなる。『オズの魔法使』ポスター

『オズの魔法使』を製作したMGMは、当初、ドロシー役をライバル社20世紀FOXの人気子役だったシャーリー・テンプルに演じさせようと考え、その条件としてMGM側がクラーク・ゲーブルジーン・ハーロウという2人の大スターを20世紀FOXへ貸し出す交渉がすすめられていた。

しかしハーロウが1937年に急死し、交渉が頓挫したため、代役としてジュディが急遽ドロシー役を演じることになった[3]

結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなり、この役でアカデミー子役賞を受賞する。

その後、空前の大ヒットとなった『若草の頃』(1944年)、『ハーヴェイ・ガールズ(英語版)』(1946年)、フレッド・アステアと共演する『イースター・パレード』(1948年)といった娯楽大作で主役をつとめ、国民的な人気俳優としての地位を不動のものとしてゆく。


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