ジュディ・オング
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ジュディ・オング
『映画情報』1966年10月号の裏表紙
基本情報
中国語翁倩玉
漢語?音W?ng Qian yu
注音符号?? ???? ??
生誕 (1950-01-24) 1950年1月24日(74歳)
 中華民国 台湾省台北市
国籍 中華民国 日本
別名Ong Chhia?-ge?k(翁倩玉の台湾語発音)
ジュディ・オング倩玉(版画家としての雅号)
英語名Judy Ongg
職業歌手女優版画家
ジャンル歌謡曲
レーベルワーナーミュージック・ジャパン
活動期間1961年 -
公式サイトjudyongg.com
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ジュディ・オング
YouTube
チャンネル

ジュディ・オング公式チャンネル-Judy Ongg

活動期間2021年 -
ジャンル美容
登録者数2.02万人
総再生回数1,562,215 回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002024-03-19-00002024年3月19日時点。
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ジュディ・オング (本名・帰化名:翁ジュディ、帰化当時は翁玉恵「おきな たまえ」)[1]、旧名・台湾名:翁倩玉(Ong Chhia?-ge?k)[1]、英語名:Judy Ongg、1950年1月24日 - )は、台湾出身の歌手女優版画家[注 1]上智大学国際学部卒業。出生地は台北市、貫籍(本籍地)は台南県柳営郷。語学が得意で、母語である台湾語のほか、日本語英語中国語スペイン語の5言語を話すことができる[2]血液型はA型。
来歴『小説倶楽部』1963年4月特大号(桃園書房)より

1950年1月24日、台湾台北市にて翁家の長女として誕生し、倩玉と名づけられた。上に兄が1人いる。

1952年、自身が2歳のときに父の仕事(米軍GHQ報道工作)の都合で一家そろって訪日。小学校は東京中華学校に入学、学校で北京語を勉強しつつ、家庭教師について英語を勉強するようになる。ここでその家庭教師にJudyという英語名をつけてもらう。また家庭では、両親の母語を忘れないようにとの教育方針から台湾語(?南語)を使っていた。

1959年、9歳の時に劇団ひまわりに入団[2]。このとき父親は反対したが、「芸能活動をしながらも、学業をきちんと終わらせること」ということを条件に、劇団に入ることを許可された。その約束どおり、東京中華学校卒業後にASIJアメリカンスクール)に通って英語を、上智大学ではスペイン語を習得している。
日本での芸能活動
コロムビア時代

1961年に日米合作映画『大津波』(原題:THE BIG WAVE・原作: ⇒Pearl S. Buck)にて映画デビュー[2]。のちテレビドラマ『三太物語』『明日の家族』などに出演した。

1964年、フジテレビ開局5周年記念ドラマ『おねえさん』に出演した際、番組を見終えた石原裕次郎から「キングコング」という渾名をつけられる。

1966年に日本コロムビアより「星と恋したい」で歌手デビュー。『サイボーグ009』・『サイボーグ009怪獣戦争』の劇場用映画二作で003役(初代)として声の出演。

1967年に「たそがれの赤い月」がスマッシュヒットする。これを含めてコロムビア時代(初期?中期)は市川昭介が手がけた「夕日の恋」、「悲しみの十字架」、「さようなら17才」、「初めての別れ」、「ひらがなふたつ」など演歌調の曲が多かった。

同時期に『涙くんさよなら』、『青春ア・ゴーゴー』、『帰ってきた狼』などの多くの映画テレビドラマS・Hは恋のイニシァル』(共演:伊東ゆかり大原麗子布施明1969年)などにも出演し人気を得た。

また、1970年代、『おしどり右京捕物車』、『賞金稼ぎ』、『必殺からくり人』、『新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅』、『江戸を斬るIV』など多くの時代劇に出演している。

この頃以降、筒美京平都倉俊一が手がけたポップス調の曲も出すようになった。

1972年、日中国交正常化を機に日本に帰化
CBS・ソニー時代

1973年日本コロムビアからCBS・ソニーに移籍。1975年、市原悦子主演のTBSドラマ『赤い殺意』主題歌「愛は生命」がヒット。

1979年に「エーゲ海のテーマ?魅せられて[注 2]が200万枚[3]の大ヒット[2]。女性下着メーカーワコールのCMソングだが、彼女自身のエキゾチックで妖艶な雰囲気と、同年の日伊合作の映画『エーゲ海に捧ぐ』のイメージともマッチし[注 3]、見事第21回日本レコード大賞を受賞。第30回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。彼女自身のデザインによる、扇状に広がる袖がついた優雅な衣装も話題になった。デザインの趣旨はスクリーンドレスで、扇状に拡げた袖と胴全体に「エーゲ海の風景の映画を映す」というものであった。通常は扇状の袖の先を中指に引っ掛けるタイプだが、NHK紅白歌合戦などの大舞台では、棒を利用して彼女の手の長さよりさらに扇の面積を大きくしたバリエーションが見られた。現在でも彼女はTVで『魅せられて』を歌う際には必ずそのドレスを着る。この曲の大ヒットをリアルタイムで知る世代の人達で「シーツで真似した」[注 4]と話す人も多い。またその衣装は小林幸子天童よしみらにも影響を与えている。当時、人気番組『8時だョ!全員集合』内では志村けんもパロディーを演じている。なお当初のコンセプトであった「袖と胴全体にエーゲ海の風景の映画を映す」は、披露のときには映像が間に合わず構想はお蔵入りとなり、2009年 - 2010年の『年越し雑学王』において、30年の時を経てスクリーンドレスとしての披露に成功している。

1979年には、アメリカのテレビドラマシリーズ『将軍 SH?GUN』にヒロインとして出演依頼もあったが、『魅せられて』の大ヒットと時期が重なったことから辞退した[4]
東芝EMI時代以降

1985年、CBS・ソニーから東芝EMIに移籍、映画『ひとひらの雪』主題歌『ひとひらの雪』がヒットする。

1990年にはラスベガスにてショーを開き、ネバダ州知事により、1990年2月3日を「ジュディ・オングデイ」と制定される。

2004年にはビクターエンタテインメントに移籍、「魅せられて」のリメーク版を出した。

また、現在はワールド・ビジョン・ジャパン( ⇒[1])の親善大使も務めており、さまざまなチャリティ活動を行っている。

2018年3月21日には、古巣の日本コロムビアから、日本では6年ぶりの新曲となる「ほほえみをありがとう/青春のままに」(「青春のままに」オリジナルエクササイズDVD付き)をリリースした。
中華圏での活躍

1966年、台湾の中央電影公司(中影)総経理・?弘と知り合い中影と契約、1968年に台湾デビュー作「小翠」に出演、台湾および東南アジア中国語圏(中華圏)に活動の場を広め、1972年には台湾映画「真假千金(邦題:ニセのお嬢さん)」にて第10回「金馬奨(ゴールデン・ホース賞)」最優秀主演女優賞を、翌1973年には同じく台湾映画「愛的天地(愛の大地)」で第19回アジア映画祭特別演技賞をそれぞれ受賞している。またその間台湾および東南アジアの中国語圏でもレコードをリリースしており、「海鴎(内山田洋とクール・ファイブが「海鳴り」として日本語版をリリース)」、「珊瑚戀(コロムビア時代のアルバム曲「海辺のメルヘン」中国語版)」、「温情滿人間(同「悲しい訪問者」)」、「口信(CBS・ソニー時代のヒット曲「愛は生命」中国語版)」「祈祷(「竹田の子守唄」のメロディに彼女の父、翁炳榮が中国語の詞をつけたもの)」など中国語の流行歌でも大ヒットを飛ばし、台湾の連続ドラマ『愛的旋風』にも主演。このころより、野球王貞治囲碁林海峰とともに台湾華人三宝の一人と称される。ジュディの台湾での映画出演は1978年の『新西廂記』まで続き、その後80年代は日本をメインに芸能活動を展開していく。なお、彼女が台湾で主演した三作品『真假千金』『愛的天地』『無價之寶(邦題:ジュディのラッキージャケット)』は、2003年の「第16回 東京国際映画祭」にて日本で上演された。

1980年には台湾の国民栄誉賞・海光奬彰を受賞(王貞治に続き2人目)。

1983年には徐克ツイ・ハーク)監督の香港映画『蜀山 新蜀山劍侠(邦題:蜀山奇傳 天空の剣)』に出演、1985年には香港でNHKのドラマ『おしん』が放送された際に作られた香港オリジナル主題歌「信」を広東語にてレコーディング、香港EMIよりリリースして東南アジア全域で大ヒット、1988年に同曲で香港白金唱片奬を受賞した。

1989年、久しぶりに台湾にてアルバム「倩玉情懷」をリリース。

1990年には、中国中央電視台(CCTV)のバラエティ番組『正大綜藝』の主題歌「愛的奉献」が中国大陸でリリースされ大ヒット。中国大陸への進出を果たし、1992年にはNHKとCCTV共同開催の日中国交正常化20周年記念「日中友好歌謡祭」にて歌と総合司会を務めた。そして1995年、彼女自身の企画による「北京平和コンサート」を北京天檀公園にて開催、日中両国から多くの歌手が参加した。また同年、台湾で勳一等華光奬章を受賞(女優・李麗華、歌手・テレサ・テンに続いて3人目)。

1999年11月には台湾大地震のチャリティコンサート『ハート・エイド』in東京国際フォーラム を企画・開催、2008年7月には同じく東京国際フォーラムで行われた四川大地震のチャリティーコンサート『ハートエイド・四川』をジャッキー・チェンらと企画・開催している。
芸能以外の活動

1975年、棟方志功門下の版画家・菊地隆知、井上勝江に師事、木版画家としての活動開始。以降1993年には初の個展開催、その後も日本国内をはじめ、台湾各地、ドイツ、フランスといった海外でも木版画展を精力的に開催している。版画では日展入選をはじめ、数々の賞を受賞しており、1995年には白日会正会員となっている。日本家屋をテーマとした作品は評判が高く、2003年には宇治の平等院鳳凰堂を100号の作品に仕上げた「鳳凰迎祥」が8回目の日展に入選し、2005年3月、同作品が平等院に奉納された。
家族構成

父方の祖父・翁俊明(1892-1943・台南人)は辛亥革命の歴史的人物であり医者、後に袁世凱コレラ菌で毒殺未遂した人物。1915年西来庵事件を機に一家でアモイに移住し、福建省香港を拠点に国民党援護の抗日活動に暗躍した人物としてしられる。1937年盧溝橋事件の時に日本国籍離脱を公言した。1943年に?州で客死[5]

母方の祖父は台南の大地主・劉北鴻。

父・翁炳栄は台湾のマスメディアの人物であった。1923年浙江省杭県で生まれ、1945年大夏大学を卒業。同年10月、国民党設立の中国広播公司が台湾放送局を建設する機に、中国広播公司の社員として台湾に再度移住した。1951年に、中国広播公司ラジオ局長に昇進した翁炳栄は駐日米軍GHQ心理作戦部の一員として来日、GHQ撤収後も中国広播公司駐日代表として日本に在留。1969年に台湾に帰国、新設の中国電視公司で重役を務めた[6]

兄・翁祖模は建築士で、高鉄台中駅の建設にも携わった[7]

前夫・鈴木洋樹は元商社マンの画商で、ヒロ・ヤマガタの日本代理権を握って年商数十億円を上げていた[8]。1992年に政財界・芸能界の大物など計2000人を招待する結婚式を日本と台湾で挙げたが、1998年に離婚[8]
特技

兄がB級ライセンスを所持していた影響から自動車の運転を得意としている[2]


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