ジュディス・メリル
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ジュディス・メリル
Judith Merril
ペンネームシリル・ジャッド(Cyril Judd)
誕生 (1923-01-21) 1923年1月21日
マサチューセッツ州ボストン
死没1997年9月12日(1997-09-12)(74歳)
カナダトロント
職業編集者、作家
ジャンルSF
代表作「ママだけが知っている」
影響を与えたもの

カール・シュレイダー(Karl Schroeder)

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ジュディス・メリル(Judith Merril, 1923年1月21日 - 1997年9月12日)は、アメリカ合衆国の(後年、カナダへ移住した)SF編集者・作家、そして政治活動家である。本名、ジュディス・ジョゼフィン・グロスマン(Judith Josephine Grossman)。「ジュディス・メリル」は1945年頃から使い始めたペンネームである。別名義としてシリル・ジャッド(Cyril Judd)がある。

『年刊SF傑作集』などを編んだ、ニュー・ウェーブ支持のSF編集者として著名。作家としてスタートし(ただし最初に稿料を得た作品はSFではなかった)、初めの数年間で3作の長編SF(最初の一つ以外はC・M・コーンブルースと合作)と何作かの短編SFを書いた。代表作としては短編「ママだけが知っている」が挙げられる。彼女はSF界における約40年の活動で、26の短編を発表し、同数のアンソロジーを編集した。
経歴
前半生

メリルはボストンで生まれた。小学生のころに父が自殺。母が仕事を得るためにニューヨーク市ブロンクス区へ移った。十代中頃にはシオニズムマルキシズムにかぶれた。

1939年(16歳)、モリス・ハイスクール(Morris High School)を卒業[1]し、またヒトラー=スターリン条約(独ソ不可侵条約)の影響で政治的信条を考え直す。翌年、トロツキズム運動を通じて知り合ったダン・ズィスマン(Dan Zissman)という人物と結婚した。1942年12月に娘のメリル・ズィスマンが生まれた。

この時期、ニューヨーク市を本拠地とするSFファン団体フューチャリアンズの会員となる(数少ない女性会員の一人であった)。メリルが合作をしたコーンブルースも会員であった。他の会員にはアイザック・アシモフフレデリック・ポールドナルド・A・ウォルハイムジェイムズ・ブリッシュデーモン・ナイトH・ビーム・パイパーらがいた。

1945年ごろ、ズィスマンと別居。1946年に同じくフューチャリアンズの一員であったフレデリック・ポールと同棲を始める。ズィスマンとの離婚が成立したのは1948年のことで、同年11月25日に彼女とポールは結婚した[2]
アメリカのSF界における執筆・編集活動

ジュディス・メリルがプロの作家として短編のスポーツ小説を書き始めたのは1945年であり、最初のSFが活字になったのはそれより遅れて1948年のことである。彼女の作品の大半(ただし、全てではない)は元フューチャリアン仲間が編集する雑誌に掲載された[3]。彼女はこの時期、ヒドラ・クラブ(Hydra Club)の創設にも関わっている[4]。メリルの短編"Dead Center"(F&SF誌1954年11月号)は、SF雑誌に発表された作品としては、マーサ・フォーリー(Martha Forley)が50年代に編集したアンソロジー"Best American Short Stories"に収録された只2つの作品のうちの1つである。

1950年、第二子のアンが誕生。なおその娘エミリー・ポール=ウィアリー(Emily Pohl-Weary)は、長じてからは作家となり、ジュブナイルおよびSFの分野で活動。また、メリルの死後は遺された書簡やメモを基にその伝記を執筆した。1952年にはポールと別居。翌年には離婚が成立した。この年、ウォルター・M・ミラー・ジュニアと半年ほど同棲した。1960年に三度目の結婚をする。63年にみたび別居に至るが、離婚は成立せず。[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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