ジュゼッペ・マルトゥッチ
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ジュゼッペ・マルトゥッチ

基本情報
生誕 (1856-01-06) 1856年1月6日
出身地 イタリア カプア
死没 (1909-06-01) 1909年6月1日(53歳没)
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家指揮者ピアニスト教育者
担当楽器ヴァイオリン

ジュゼッペ・マルトゥッチ(Giuseppe Martucci 1856年1月6日 - 1909年6月1日)はイタリア作曲家指揮者ピアニスト教育者。作曲家としては、イタリア器楽曲復興の大立役者であり、指揮者としては、リヒャルト・ワーグナー楽劇のイタリア初演に尽力し、またイギリス音楽による初期の演奏会をヨーロッパ大陸でおそらく最初に実現させた。オラトリオ《サムエル(Samuel)》も遺している[1]が、当時のイタリア人作曲家に珍しく、歌劇は手懸けていない。「絶対音楽」を究極の目標に定めた、生粋の器楽曲作家であった。
略歴

カプアに生まれ、軍楽隊員でトランペット奏者であった父ガエターノから、音楽の基礎教育を受ける。やがて神童として頭角を顕し、8歳でピアニストとして初舞台を踏んだ[2]ジギスモント・タールベルクの高弟、ベニアミーノ・チェージ教授の推薦状を得て、11歳からナポリ音楽院に入学し[3]、ピアノをチェージに、作曲をパオロ・セラオに師事。1875年に19歳の若さでピアニストとして演奏旅行を開始し、ドイツフランスイングランドの各地を歴訪する[4]。その間しばしばチェリストのアルフレード・ピアッティと共演した。

1880年にナポリ音楽院のピアノ科教授に就任し[3]1886年にはルイージ・マンチネッリの後任校長としてボローニャ音楽学校に赴任している。

指揮者として活動を開始したのは1881年のことである。指揮者としてワーグナーの作品をイタリアで上演するのに尽力し、1888年にはボローニャにおいて、《トリスタンとイゾルデ》のイタリア初演を指揮した[5]。さらに1898年には、チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの《交響曲 第3番 ヘ短調「アイルランド」》もボローニャで上演している[6]。これは、19世紀後半のヨーロッパ大陸において、おそらく唯一無二のイギリス音楽のみの演奏会であったろう[3]。指揮者としてのレパートリーは、このほかに、エドゥアール・ラロヨハネス・ブラームスカール・ゴルトマルクの作品が含まれていた。

1902年ナポリに戻って王立音楽院の院長に就任[4][2]。最晩年をナポリに過ごし、1909年に同地で他界した。主要な門弟にオットリーノ・レスピーギがいる。

1883年にナポリで生まれた息子パオロは、父と同じくピアニストとして名をなし、一時期シンシナティ音楽院で教鞭を執っていた[2][3]
作風

16歳のときにピアノの小曲を創って作曲活動に入った。オペラが幅を利かせていた当時のイタリア音楽界にあって、珍しいことにオペラは手懸けず、器楽曲歌曲の創作に専従した。

作風は、ワーグナーよりもむしろベートーヴェンシューマン、ブラームスの伝統から出発している。数多くのピアノ曲のほか、《ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調》(1878年)と《第2番 変ロ短調》(1884年?1885年)、《交響曲 第1番 ニ短調》(1888年 – 95年)[1])と《第2番 ヘ長調》(1904年)、オラトリオ《サムエル》、管弦楽伴奏歌曲、オルガン・ソナタ、ピアノ五重奏曲、2つのピアノ三重奏曲などを遺した。


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