ジュゼッペ・ファリーナ
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この項目では、実在したF1ドライバーについて説明しています。漫画・アニメ「エリア88」の登場人物については「エリア88の登場人物」をご覧ください。

ジュゼッペ・ファリーナ
Giuseppe Farina

基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1906-10-30) 1906年10月30日
出身地エミリオ・ジュゼッペ・ファリーナ
Emilio Giuseppe Farina
イタリア王国
同・ピエモンテ州トリノ
死没日 (1966-06-30) 1966年6月30日(59歳没)
死没地

フランス
同・サヴォワ県エーグベル
基本情報
F1での経歴
活動時期1950-1956
所属チーム'50-'51 アルファロメオ
'52-'55 フェラーリ
出走回数37 (33スタート)
タイトル1 (1950)
優勝回数5
表彰台(3位以内)回数20
通算獲得ポイント115 .mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄3 (127 1⁄3)
ポールポジション5
ファステストラップ5
初戦1950年イギリスGP
初勝利1950年イギリスGP
最終勝利1953年ドイツGP
最終戦1956年インディ500
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ル・マン24時間での経歴
年1953
チームスクーデリア・フェラーリ
最高位DSQ

エミリオ・ジュゼッペ・ファリーナ(Emilio Giuseppe Farina, 1906年10月30日 - 1966年6月30日)は、イタリア・トリノ出身のレーシング・ドライバー。1950年に創始されたF1世界選手権の初代チャンピオンでもある。博士号を持つことから、ドクター・ファリーナの異名を取った。また、ニーノの愛称もある。
人物紹介

トリノカロッツェリア・スタビリメンティ・ファリーナを経営するジョヴァンニ・ファリーナの息子として生まれる。叔父のバッティスタ・ファリーナピニンファリーナの創始者である。

10歳のときにモータースポーツの魅力に取りつかれ、1921年に15歳にして自らレースに参加するようになった。その後法学の博士などを経て、1930年のヒルクライムで本格的なキャリアをスタート。しかし、そのレースではクラッシュにより骨折している。

出鼻を挫かれる形となったファリーナだが、その後は順調にキャリアを重ね、1938年頃にはアルファロメオのエースとなっていた。1940年にリビアで行われたトリポリGPで勝利後、第二次世界大戦の激化により一時レースが中断となるも、戦後は再び第一線で活躍。1948年には、モナコGPも制している。
F1

1950年に始まったF1世界選手権において、開幕戦のイギリスGPポールポジションを獲得し、レースでも優勝。ポールトゥーウィンを達成し、創設初戦における、それぞれの初代1位獲得者として名を刻んだ。この年3勝を挙げ、ファン・マヌエル・ファンジオルイジ・ファジオーリに競り勝ち、初代ワールドチャンピオンとなった。

1951年はチームメイトの1人だったファンジオがシーズンを圧巻し、ファリーナは1勝に終わる。またこの年をもってアルファロメオが撤退したため、以降フェラーリを駆ることになる。この際、アルベルト・アスカーリのセカンドドライバーとしての契約となったが、この立場に甘んじることに不満を抱いていた。1953年以降は勝利から遠ざかったこともあって、1955年半ばにF1から引退した。
スポーツカー

F1でフェラーリをドライブしていた頃、スポーツカーレースにもフェラーリから参戦。1953年ニュルブルクリンク1000kmレース、1954年ブレノスアイレス1000kmレースで勝利を収めた。
F1後

F1引退後、1956年にはインディ500に挑戦するが、予選落ちに終わる。これをもって本格的なキャリアは終わりを告げるが、細々とはレース活動を続けた。

ファリーナはアルファロメオとジャガーの販売に携わるようになり、後にピニンファリーナの工場でアシスタントを務めた。

1966年6月30日、F1フランスGPへ向かう途中、ファリーナはエギュベル近郊のサヴォイ・アルプスでロータス・コルティナのコントロールを失い、電信柱に衝突し即死した。彼はレースを観戦するためと、映画『グランプリ』で元世界チャンピオンを演じたフランス人俳優イブ・モンタンのアドバイザー兼運転手として撮影に参加するための両方に向かう途中だった。
エピソード

そのドライビングポジションは当時としては独特だった。他の多くのドライバーがハンドルを抱えるように持っていたのに対し、ファリーナは上体を後ろに反らし、腕を伸ばした形でハンドルを握る「レイ・バック」と呼ばれるスタイルで、現在に近いものであった。

熱血型の性格だったといわれる。
1947年ピアチェンツァのレースにフェラーリで参加した際には、マシンの不調からマシンを交換するようチームに要求するも、聞き入れられなかった。憤慨したファリーナは、レース前にサーキットから姿を消してしまい、戻って来なかった。

激しいドライビングスタイルだった。エンツォ・フェラーリは、「アクセルを踏み続けることを恐れない勇気あるレーサーだったが、スタート時はクラッシュを起こすのではないかと気を揉んだ」、「他者や自分を危険にさらすこともあり、常に病院に部屋を準備しておく必要があった」などの発言を残している。

激しいドライビングスタイルだったのは事実で、他車をクラッシュの危険に晒すのを厭わない走りで、1936年のグランプリ・ド・ドーヴィルではマルセル・ルフー(英語版)と、1938年のグラン・プレミオ・ディ・トリポリではラズロ・ハートマン(英語版)とレース中に接触事故を起こし、それぞれ相手を死に追いやっている。

F1での最後の勝利となった1953年ドイツグランプリは、昭和天皇の名代としてエリザベス2世戴冠式に参列するなど、6ヶ月間の欧米歴訪中だった当時19歳の皇太子明仁親王台覧していた。レース終了後の表彰台で明仁親王がファリーナを祝福し握手を交わした際の写真が通信社を介して各国に配信されており、その時の模様を伝えている。明仁親王が自動車レースを観戦したのは、この1回のみである。

レース戦績
ヨーロピアン選手権

年エントラントシャシーエンジン1234567EDCポイント
1935年ジーノ・ローヴェレマセラティ・6C-34マセラティ 3.7 L6MON
RetFRABELGER21位51
Dr. G. ファリーナSUI
8
スクーデリア・スバルピーナマセラティ・V8RIマセラティ 4.8 V8ITA
DNSESP
1936年スクーデリア・フェラーリアルファロメオ8C-35アルファロメオ 3.8 L8MON
RetGERSUI
Ret14位26
アルファロメオ・12C 1936アルファロメオ 4.1 V12ITA
Ret
1937年アルファロメオ・12C-36BELGER
RetMON
6SUI
RetITA
Ret7位28
1938年アルファコルセアルファロメオ・Tipo 312アルファロメオ 3.0 V12FRAGER
RetSUI
58位21
アルファロメオ・Tipo 316アルファロメオ 3.0 V16ITA


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