ジュゼッペ・キアラ
Giuseppe Chiara
生誕1602年
シチリア王国
死没1685年8月25日(満83歳没)
日本
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ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara、慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))は、イタリア出身のカトリックイエズス会宣教師。キリシタン禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、迫害と拷問の責め苦に耐えかねて強制改宗により棄教し、岡本三右衛門(おかもと さんえもん)という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の小説『沈黙』(篠田正浩により1971年に、2016年にマーティン・スコセッシにより『沈黙 -サイレンス-』として映画化)の主人公のモデルとなったことでも知られる。 1602年、シチリア王国のキウーザ・スクラーファニで生まれる[1]。 江戸幕府はいわゆる「鎖国令」(ポルトガル商船の追放およびオランダ人の出島移住)を布告した直後であり、キリシタン禁教令によりキリスト教は厳しい弾圧下にあった。寛永10年(1633年)、ポルトガル人イエズス会司祭クリストヴァン・フェレイラが長崎で捕らえられ、穴吊りの拷問を受けて3日後に棄教、最初の転びバテレンとなっていた[2]。 この知らせを聞いてキアラを含む10名のイエズス会士が日本へ向かった。一行はマニラを経由し、寛永20年(1643年)1643年6月27日に筑前国に上陸したが、すぐ捕らえられて長崎へ送られ、同年8月27日には江戸へ移送された[2]。 宗門改奉行・井上政重の邸に預けられ詮議が行われ、この詮議にはフェレイラ(沢野忠庵)自身も協力した[2]。また大老酒井忠勝・老中堀田正盛らの邸でも取り調べが行われ、その際は将軍徳川家光も自ら検分したという。キアラはフェレイラと同じく穴吊りの拷問を受け3日後に棄教、その後信仰に戻ると言っても許されることはなかった[2]。 正保3年(1646年)、小石川の切支丹屋敷(現在の東京都文京区小日向1-24-8[3])に移され[2]、同じく入国を企てた仲間とともに収容された。幕命により岡本三右衛門という殉教した下級武士の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継いだ。幕府からは十人扶持を与えられたが、切支丹屋敷から出ることは許されなかった。その後もたびたびキリシタンおよび宣教師についての情報を幕府に提出し、宗門改方の業務も行った。 晩年の延宝2年(1674年)、役人からキリスト教の教義について書くことを要求され『天主教大意』3巻を執筆した[2]。後にジョヴァンニ・シドッティを尋問するにあたり新井白石がこれを研究し、白石はシドッティへの尋問に基づき『西洋紀聞』を著した[2]。またキアラは寺の檀家になることも求められたが拒否している[2]。 幽閉43年の後、貞享2年(1685年)7月25日に病死。遺体は荼毘に付され(当時のキリスト教では火葬は禁忌とされていた)[4]、切支丹屋敷に近い小石川無量院に葬られた[2]。墓碑には「入専浄真信士霊位、貞享二乙丑年七月廿五日」とある。墓石の笠が司祭帽に似た特徴的な形で、戒名の「入専」は「ジュセン」と読み「ジュゼッペ」から取られたものとされている[2][4]。
略歴
墓碑