郎世寧
職業:画家
各種表記
ラテン字:Giuseppe Castiglione
テンプレートを表示
ジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione、1688年7月19日 - 1766年7月17日[1]、中国名郎世寧〈ろうせいねい Lang Shining〉)は、イタリアのミラノ生まれのイエズス会宣教師、画家である。27歳まではヨーロッパで熱心なキリスト教徒として生活しながら絵を学び、1715年8月に宣教師として中国に渡った[2]。清朝の宮廷画家として康熙帝、雍正帝、乾隆帝に仕え、西洋画の技法を中国へと伝え、美術や建築に影響を与えた。絵画作品では乾隆帝大閲図、ジュンガル討伐戦の情景画、香妃
肖像画などが有名である。バロック様式を取り入れた離宮である円明園西洋楼を設計した。この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノート
を参照してください。(2023年6月)カスティリオーネはミラノに生まれた。ボローニャ派の伝統に従ったプロの画家としての訓練を積み、アンドレア・ポッツォに直接学んだわけではないが、その影響を受けていた[3]。1707年にジェノヴァのイエズス会の会士となったが、司祭ではなく修士であり、中国で画家として働く任務を与えられた。1709年にコインブラに移り、そこでも画家として活躍したらしいが、作品は残っていない[3]。1715年に1年4ヶ月間の長期航海を経て、清朝時代の中国へ渡った。中国名である郎世寧の名を名乗るようになり、紫禁城へ入ってからは琺瑯器の製作や「中国風景図」を創作した。1716年には年希堯と共著で『視学』を出した。これは史上初の中国における西洋絵画の焦点透視法を紹介した専門書である[4]。
紫禁城は清朝皇帝が至高の権力者となった際に中心となった城であり、そこに西洋人画家が入っているのは極めて異色であった。キリスト宣教師でもあったカスティリオーネは、自身の持つ芸術的な才能を用いて中国の民衆を啓蒙したとされる。
康熙帝の崩御後、雍正帝はキリスト教を禁止し、宣教師をマカオに追放したが、北京の宮廷にいる宣教師は引き続き仕えることができた。乾隆帝にはまだ皇子だったころから仕えており、とくに重用された。
雍正帝と乾隆帝は円明園の大々的な拡張を行い、カスティリオーネはその設計に参加した。
長年の乱世を経て郎世寧の作品は世界各地に散逸したが、半分以上は未だ中国大陸と台湾に残っている。しかし現在[いつ?]の美術界はさほど評価はしていない。
1766年に北京で没し、侍郎の官位を贈られた。
代表作品ジュゼッペ・カスティリオーネが描いた「儀礼用甲冑を着けた乾隆帝」 (1739年か1758年)
康熙年間の作品は残っておらず、雍正元年に描かれた静物画「聚瑞図」が現存する作品でもっとも古い。雍正年間には有名な「百駿図」をはじめとして多くの馬の絵も描かれた。乾隆年間はもっとも多産であり、乾隆元年に乾隆帝・皇后・11人の貴妃を描いた「心写治平」(クリーブランド美術館蔵)、乾隆帝の外征や外国の帰順などの歴史的場面を描いた作品などがある。
カスティリオーネは西洋画と中国の伝統的な絵画を折衷させた独特の様式を発達させた。当時の中国人の趣味に合わせて、肖像画は常に正面から描き、陰影はつけなかった。また絹や宣紙に膠状の顔料で絵を描く必要があった。
カスティリオーネは西洋から清にわたった画家としてもっとも優れていたが、乾隆帝の宮廷にはカスティリオーネ以外にもジャン=ドニ・アティレら4人の西洋人が働いており、また西洋人に学んだ中国人画家もいた。カスティリオーネの名前を冠していても、実際にはこれらの画家との共同製作も少なくないことに注意しなければならない[5]。
下にある「乾隆皇帝朝服像」は乾隆帝自ら郎世寧に依頼し描かせた肖像画である。史上初めて描かれた正式な正面朝服肖像画であった。正面から照らす光を採り、側面からの光による強烈な明と暗の対比を避けることで精錬で柔和な表情に見せるよう描いてある。さらに皇帝と皇后、皇妃、皇嬪の肖像画絵巻も作らせ、「心写治平図」の題をつけた[6]。