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「アラビア人の錬金術師、ゲーベル」と題されたジャービルの想像画
ジャービル・イブン・ハイヤーン(??????? ???? ???????, J?bir ibn ?ayy?n、; fl. c. 721年 ? c. 815年[1])は、8世紀後半から9世紀初頭にかけてバグダードかクーファで活動した錬金術師[1]。アラビア語で著作を書いたイスラーム圏の学者である。いくつかの著作が12世紀頃にラテン語に翻訳されてヨーロッパ・キリスト教圏の科学・学術にも影響を及ぼした。西欧ではゲーベル(Geber)というラテン名でも知られる。
非常に多くの文献がジャービル・イブン・ハイヤーンあるいはゲーベルの作に帰せられており、これらをジャービル文献(Jabirian Corpus; Corpus Geberii)と総称する。ジャービル文献には数秘術や秘教主義的要素が含まれる文献が多数あり、これらはイスマーイール派との関連が指摘されている。その他にヨーロッパの学者がゲーベルの名をかたって書いたものもある。ジャービル文献については、今日的な価値観に基づいて、観察や実験の重要性について述べた科学哲学的内容や、硫酸や硝酸について述べた化学的内容を記載している点が重視される場合もある。
生涯ヨーロッパで描かれた「ゲーベル」の像(15世紀)
ジャービルは半ば伝説的な存在であり[1]、歴史的には実在しない架空の人物であるという説が唱えられたこともあった[2]。20世紀前半に東洋学者のパウル・クラウスが詳細な研究をした[3]。これを検証した Martin Plessner によると、ジャービルに関する情報はイブン・ナディームが記したことがおおむね正しいようである[3][4]。
10世紀末バグダードの書籍商イブン・ナディームの『フィフリスト』(987年ごろ成書)は、ジャービルについて言及した最も古い文献の一つである[2]。『フィフリスト』には、「ジャービルは自分たちのアブワブ(abwab)の一人であって[注釈 1]、イマーム・サーディクのサハーバである」と主張するシーア派の一派がいたという記載がある[2]。イブン・ナディームは、その記載に続けて「ジャービルは論理学と哲学に関する本を書いた哲学者の一人に過ぎないと主張する人たちもいる」と書いた[2]。
『フィフリスト』における別のセクションでは、「仮にジャービルなる人物が実在していたのなら、正真正銘ジャービルが書いた本は ???? ?????? ??????(Kit?b al-Ra?mah al-kab?r, 大いなる慈悲の書)のみだろうと主張するウラマーやワッラーク[注釈 2]もいる」という記載がある[2]。彼らによると「残りの著作は、誰か別のものがジャービルの名前を騙って書いたに違いない」という[2]。イブン・ナディームは、ジャービル非実在説に対して截然と反論した[2]。このように、「バーティンの継承者という正統性を持った大魔術師ジャービル」という虚像は、10世紀前半には成立していたようである[2]。
ジャービルは西暦721年ごろにホラーサーンの町、トゥースで生まれた[1][2]。薬草医を生業として、815年ごろにクーファで没した[1]。ジャービルは青年期に、イスラーム世界の歴史の転換点となった748年のアッバース革命を経験した[2]。ジャービルと同じく薬草医であったその父、ハイヤーンはアッバース家に味方して権力闘争に巻き込まれ、ウマイヤ家の支持者に捕まって処刑されたため、ジャービルは生まれてまもなくの頃に孤児になった[2]。