シティ・オブ・ジャージーシティ
City of Jersey City
市旗
愛称 : Wall Street West
位置
ハドソン郡内の位置
アメリカ国勢調査局図
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度42分50秒 西経74度04分16秒 / 北緯40.714度 西経74.071度 / 40.714; -74.071
ジャージーシティ(英語:Jersey City)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州第2の都市であり、ハドソン郡の郡庁所在地。ハドソン川を隔ててニューヨーク市のロウアー・マンハッタン対岸に位置する。人口は29万2449人(2020年)で、西には州内最大都市のニューアークに隣接する。ジャージーシティは「ニューヨーク市第6の区」と称されることもあると同時に、ニュージャージー州きっての港湾都市である。ダウンタウンは一時期荒廃したが近年では再開発が進み、ゴールドマン・サックス・タワーをはじめとする超高層ビルが建つなど商業都市として発展している。マンハッタンの対岸という地の利からジャージーシティに主要拠点を構える企業も多く、フォーブスなど本社を置く大企業も増えている。
歴史
草創期ニューアムステルダム(1664年)
古くは、この一帯の原野にはレナペ族のネイティブ・アメリカンが住んでいた。1609年、ヘンリー・ハドソンは東アジアに通ずる近道を求めてハドソン川河口のこの地にやってきたが、太平洋につながる航路は見つからなかった。ハドソンは一帯を探索し、アメリカ先住民と交易を行った後に母国オランダへ帰った。その後、オランダはこの一帯にニューネーデルラント植民地を建設した。1625年にはハドソン川東岸のマンハッタン島にニューアムステルダムが建設され、1630年には西岸に現在のジャージーシティおよびホーボーケンとなる入植地を建設するための土地がアメリカ先住民から購入された。この西岸の土地に入植が始まったのは1633年のことであった。やがてレナペ族とオランダ人入植者との関係は悪化し、1643年と1655年の2度に渡って入植地はレナペ族に破壊され、その一方でオランダ人入植者はレナペ族を虐殺した。
現在のジャージーシティとなる地域にはパボニア(Pavonia)、コミュニポウ(Communipaw)、ハーシムス(Harsimus)、パウルスフック(Paulus Hook)、ホーバック(Hoebuck)、アウィーハーケン(Awiehaken)などのオランダ人入植地が散らばっていた。最古の村は現在のベルゲン・スクエアに1660年に創設された。ジャージーシティに現存する最古の家は1742年に建てられたものである。やがて独立戦争が開戦すると、これらの町はイギリスの手中に収められていた。1779年8月19日には、パウルスフックは「ライトホース・ハリー」の異名を取るヘンリー・リーの攻撃を受けた。独立戦争が終わると、アレクサンダー・ハミルトンをはじめとするニューヨークやニュージャージーの住民はこの地域の開発に力を入れ、街路を整備し、現在のジャージーシティのダウンタウンの礎を作り上げた。19世紀に入ると、ジャージーシティは地下鉄道のルートの集積地的な役割を果たした。ニュージャージーを通る4本のルートがジャージーシティで合流していた。
市の創設と繁栄ハドソン川を行き交う船舶とジャージーシティの街並み(1890年)