ジャージーシティ
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シティ・オブ・ジャージーシティ
City of Jersey City


市旗

愛称 : Wall Street West
位置

ハドソン郡内の位置

アメリカ国勢調査局図
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度42分50秒 西経74度04分16秒 / 北緯40.714度 西経74.071度 / 40.714; -74.071
歴史
成立1838年2月22日
行政
アメリカ合衆国
  ニュージャージー州
 ハドソン郡
 市シティ・オブ・ジャージーシティ
市長スティーブン・フロップ
地理
面積 
  市域54.596 km2
    陸上  38.316 km2
    水面  16.281 km2
      水面面積比率    29.82%
標高6 m
人口
人口(2020年現在)
  市域292,449人
  備考[1]
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
ZIPコード07097, 07302?07308, 07310?07311[2]
市外局番201/551
公式ウェブサイト : ⇒http://www.cityofjerseycity.com

ジャージーシティ(英語:Jersey City)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州第2の都市であり、ハドソン郡郡庁所在地ハドソン川を隔ててニューヨーク市のロウアー・マンハッタン対岸に位置する。人口は29万2449人(2020年)で、西には州内最大都市のニューアークに隣接する。ジャージーシティは「ニューヨーク市第6の区」と称されることもあると同時に、ニュージャージー州きっての港湾都市である。ダウンタウンは一時期荒廃したが近年では再開発が進み、ゴールドマン・サックス・タワーをはじめとする超高層ビルが建つなど商業都市として発展している。マンハッタンの対岸という地の利からジャージーシティに主要拠点を構える企業も多く、フォーブスなど本社を置く大企業も増えている。
歴史
草創期ニューアムステルダム(1664年)

古くは、この一帯の原野にはレナペ族のネイティブ・アメリカンが住んでいた。1609年ヘンリー・ハドソン東アジアに通ずる近道を求めてハドソン川河口のこの地にやってきたが、太平洋につながる航路は見つからなかった。ハドソンは一帯を探索し、アメリカ先住民と交易を行った後に母国オランダへ帰った。その後、オランダはこの一帯にニューネーデルラント植民地を建設した。1625年にはハドソン川東岸のマンハッタン島にニューアムステルダムが建設され、1630年には西岸に現在のジャージーシティおよびホーボーケンとなる入植地を建設するための土地がアメリカ先住民から購入された。この西岸の土地に入植が始まったのは1633年のことであった。やがてレナペ族とオランダ人入植者との関係は悪化し、1643年1655年の2度に渡って入植地はレナペ族に破壊され、その一方でオランダ人入植者はレナペ族を虐殺した。

現在のジャージーシティとなる地域にはパボニア(Pavonia)、コミュニポウ(Communipaw)、ハーシムス(Harsimus)、パウルスフック(Paulus Hook)、ホーバック(Hoebuck)、アウィーハーケン(Awiehaken)などのオランダ人入植地が散らばっていた。最古の村は現在のベルゲン・スクエアに1660年に創設された。ジャージーシティに現存する最古の家は1742年に建てられたものである。やがて独立戦争が開戦すると、これらの町はイギリスの手中に収められていた。1779年8月19日には、パウルスフックは「ライトホース・ハリー」の異名を取るヘンリー・リーの攻撃を受けた。独立戦争が終わると、アレクサンダー・ハミルトンをはじめとするニューヨークやニュージャージーの住民はこの地域の開発に力を入れ、街路を整備し、現在のジャージーシティのダウンタウンの礎を作り上げた。19世紀に入ると、ジャージーシティは地下鉄道のルートの集積地的な役割を果たした。ニュージャージーを通る4本のルートがジャージーシティで合流していた。
市の創設と繁栄ハドソン川を行き交う船舶とジャージーシティの街並み(1890年)

1820年1月28日、ニュージャージー州法に基づいてシティ・オブ・ジャージー(City of Jersey)がノースベルゲンタウンシップから分離独立し、バーゲン郡の一部ではあったものの、正式な市となった。その後1829年1838年の2度にわたって市は再組織され、現在のジャージーシティという市名になった。1840年2月22日には、ジャージーシティは新たに成立したハドソン郡の一部となった。

ジャージーシティは成長し、隣接する自治体を合併していった。1851年3月18日にはファン・フォースト・タウンシップを、1870年5月2日にはベルゲンシティとハドソンシティを、そして1873年2月4日にはグリーンビルを合併した。これらの合併によって、現在のジャージーシティの市域が確定した。

19世紀後半から20世紀前半にかけては、ジャージーシティは対岸のニューヨーク同様に港湾都市として、また工業都市として発展していった。アメリカ合衆国に入国する移民にとっては、ジャージーシティは初めて足を踏み入れる土地のひとつであった。第二次世界大戦前の全盛期においては、コルゲートをはじめとするジャージーシティ市内の工場ではドイツ系、アイルランド系、イタリア系の移民が多数働いていた。しかし、当時のジャージーシティにおける最大の雇用源は鉄道産業であった。1911年にハドソン川の下をくぐり、マンハッタンのペンシルベニア駅に通ずるペンシルベニア鉄道の長大な河底トンネルが完成するまでは、ジャージーシティのダウンタウンには同社のターミナルがあった。ペンシルベニア鉄道の乗客はこのターミナルからマンハッタンに向かうフェリーに乗り換えたり、ハドソン郡内各所やそれ以遠へと走るトロリーバスに乗り換えたりしていた。路面電車は1949年に廃止された。爆破事件直後のブラック・トム埠頭

しかし移民を受け入れて繁栄を続ける一方で、移民による事件も起こった。1916年7月30日、第一次世界大戦の最中、ジャージーシティ市内でブラック・トム大爆発と呼ばれる爆破テロ事件が起こった。連合国火薬を使わせないようにするため、ドイツ諜報員破壊活動としてこの事件を起こしたのであった。この事件は死者7人、重軽傷者数百人を出し、被害総額は当時の物価で2,000万ドル(2007年現在換算3億6,500万ドル)に上った。

1930年には、ジャージーシティは316,715人の人口を抱え、ピークを迎えた。
フランク・ハーグの時代

1917年から1947年の30年間にわたって、ジャージーシティはフランク・ハーグ(英語版)に牛耳られていた。


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