ジャン1世_(ブルゴーニュ公)
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ジャン1世
Jean I
ブルゴーニュ

在位1404年 - 1419年

出生1371年5月28日
ブルゴーニュ公国ディジョン
死去1419年9月10日[1]
フランス王国、モントロー(フランス語版)
埋葬 ブルゴーニュ公国、ディジョン、シャンモル修道院
配偶者マルグリット・ド・バヴィエール
子女一覧参照
家名ヴァロワ=ブルゴーニュ家
父親フィリップ2世(豪胆公)
母親フランドル女伯マルグリット3世
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ジャン1世(Jean Ier, 1371年5月28日 - 1419年9月10日)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の第2代ブルゴーニュ(在位:1404年 - 1419年)。「無怖公」あるいは「無畏公」(サン・プール/sans peur)と呼ばれる。フィリップ2世(豪胆公)とフランドル女伯マルグリット3世の長男。伯父はシャルル5世、ルイ1世・ダンジュー、ベリー公ジャン1世、祖父はフランス王ジャン2世、曽祖父はフランス王フィリップ6世、高祖父はヴァロワ伯シャルルである。
生涯
生い立ち

フィリップ豪胆公とマルグリット夫妻の第1子、長男として生まれ、フランドルで育った[2]。名は父方祖父のフランス王ジャン2世に由来する[3]

1385年、下バイエルン=シュトラウビング公・エノー伯・ホラント伯・ゼーラント伯アルブレヒト1世の娘マルグリット・ド・バヴィエールと結婚した(カンブレー二重結婚)。同時にマルグリットの弟ヴィルヘルムと無怖公の妹マルグリットも結婚、二重結婚を通してヴァロワ=ブルゴーニュ家は北方に進出する足掛かりを得た。

1396年ハンガリージギスムント(後の神聖ローマ皇帝)による対オスマン帝国十字軍に参加し、ニコポリスの戦いの大敗により捕虜となったが、父が20万フローリンに上る莫大な身代金を払ったため釈放される[4]。ジャン自身は、その勇猛さ(あるいは軽率な向こう見ずさ)から「怖れ知らず」すなわち「無怖公/無畏公」と渾名されるようになった[2]

帰国後は父の意向で長女マルグリットと長男フィリップ(後のフィリップ3世、善良公)をフランス王太子ルイと姉ミシェルと婚約させ、更なる二重結婚でフランス王家とも縁組を結んだが、無怖公本人はヌヴェールで統治のため在住しており宮廷とはあまり縁が無かった[5]
ブルゴーニュ公位継承、王妃・王弟との対立

1404年4月27日、父のフィリップ豪胆公が逝去した。豪胆公の葬儀の翌日、新たなブルゴーニュ公であるジャン無怖公は、ディジョンへの入市式(英語版)を執り行い、一連の儀式と共に、豪胆公が取り決めた、娘マルグリットフランス王太子:ギュイエンヌ公ルイの婚約式も挙行した[2]。ここに無怖公が望むと望まざるに関わらず、無怖公の従弟であり「先王シャルル5世の子」「現王シャルル6世の唯一の男兄弟」であるオルレアン公ルイとの対立が表面化した[6]

さらに1405年3月21日、母のフランドル女伯マルグリット3世が急逝すると、フランス国王に改めて臣従の礼を捧げるためパリ訪問の機会が訪れる[7]。折しも6月にカレーを包囲したもののフランス政府が援助を断ったことを機に[8]、ジャン無怖公が5000名の兵を引き連れて、パリに向かうと、王妃イザボー・ド・バヴィエールと王弟オルレアン公ルイは、国王シャルル6世(狂気王)をパリに残して逃亡した[7]。王妃と王弟は、王妃の兄ルートヴィヒ(仏:ルイ)の護衛させた王太子夫妻をも自らに合流させようとしていた[7]。同年8月19日、無怖公の一行はパリを通過し、王妃と王弟を追跡する[7]。無怖公の配下が王太子夫妻に追いつき、ブルゴーニュ側の護衛を付けてパリに連れ戻すことに成功する[9]。以後無怖公は、政府の攻撃と改革を旗印にパリ市民を味方につけ、合わせて軍を動かし圧力をかける手法を活用していくことになる。

8月26日フランドル伯として兄ジャン無怖公が、ルテル伯として弟アントワーヌが、それぞれ国王シャルル6世に対し臣従の礼を捧げた[9]。さらに高等法院や会計法院に対して、王弟オルレアン公の推進した重税や「王太子夫妻誘拐」等に対する改革を提言した[9]。オルレアン公は9月2日になって、これに反論し、その結果、ジャン無怖公との対立は一触即発の状態となった[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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